玄関扉を開けて一歩足を踏み入れると、雨音が一挙にくぐもった。 「ただいまー、ひどい雨だ。……くしゅっ」 「おぉ、おかえり。ずいぶん降られたみたいだな、早く着換えろ」 胡坐座りで本を読んでいた磐佐が、緩慢な動作で顔をあげた。扉を閉めた相嶋が玄関に腰かけ、雨避けの長靴を脱ぎながら、げんなりと言葉を返す。 「スコール一歩手前って感じでさ。いつまで降るだろうな?」 「そうだな……夜明け前には止むんじゃないか」 磐佐が細く雨戸をあけて、空を見上げた。大きな雨粒の幕に邪魔されて、厚い雲が覆っているはずの空でさえよく見えない。肩をすくめた磐佐が静かに雨戸を閉めて、再び手元の本に目を戻す。 一つ溜め息をついて湿った衣服を片端から脱ぎ、手早くシャツをはおると、じくりと古傷が疼いた。 「……ってぇ……」 「なんだ、どっか怪我でもしたのか?」 耳ざとく聞きつけて、磐佐が顔をあげた。 先程の「早く着替えろ」といいこの男、何も考えずに生きているようでいて、意外とまわりに気を遣っている。当初は社交辞令上の一環かと思っていたのだが、どうやらこれが彼の素であるらしい。 「いや、雨のせいかな。古傷がさ」 笑って答え、手早く釦を留める。本を閉じた磐佐に「ちなみに、どの傷だ」と問われ、シャツの上から脇腹を指差した。 「これこれ。なんかなー……じわじわと気持ち悪いんだ」 「あぁ、女に刺されたんだっけ」 「よく覚えてるな……いい加減忘れろよ」 十年も前の話で、花柳界をうまく渡っていけなかった上に、女に負傷までさせられたのだから、けして勲章などではない。つまり相嶋にとっては黒歴史なのだ……が、磐佐にとってはちょっとした珍事件だったようだ。偶然見つけられ、助けを求めたのが彼だったこともあり、いまだに彼の脳裏にはありありと情景が浮かぶらしい。 軽く腹を押さえて、上半身を前に倒したり、後ろにそらしたり。同居人は、その様子を興味深げに眺めている。 「そういやお前、ちょいちょい怪我してるよな。たしか、ここはぶつけたんだっけ」 そう言ったかと思うと、磐佐が突然手を伸ばし、相嶋の肩を強く押した。先日シャツの真下にできた大きな痣に、相嶋が慌てて身をよじらせた。 「いっ……たいだろ! 何すんだよ!」 「大怪我にならなくてよかったよなぁ」 「そういう誰かさんは、こないだタラップ落ちて、頭打ったって聞いたけどなー」 にやにや笑いに、揶揄するような笑みを返す。それでも無事だった石頭だが、最近仰向けに寝るのを、磐佐がこっそり避けているのは知っていた。そしてもう一つ、彼がそれを妙に気にしていることも。 「……誰に聞いたんだ」 案の定顔をしかめて、磐佐が低く唸る。企業秘密だとばかりにそっぽをむくと、やがて諦めたように息をついて、彼が再び本を開いた。 「……その件についてはまた後だ。とりあえず風呂、入ってこいよ」 「いったん外出なきゃだろ……面倒くさいなー……」 「風邪も青タンも古傷も、温めたほうが治り早いぞ」 「へいへい……」 相嶋が嫌々といった口調で、重い腰をあげる。ちらりと鞄に目をやって、紙包みを見、そして磐佐の背を見やる。 土産にもらった芋羊羹、こいつも確か好きだったはずだ。風呂上がりに開けようかなと考えながら、頭をかきかき、相嶋は着替えを取り上げた。 |