相嶋が休日出勤していた上司のもとを訪れたのは、翌日の朝のことだった。 「やぁ丁度よかった、部内の人間が誰も来なくてね。来週の見合いについて、君と打ち合わせでもと思っていたんだ」 嬉しそうに手を差し延べて、相手が彼を向かいの席へと招く。 椅子へ座ると、ほんの少しだけ罪悪感が生まれた。いまさらこんなことを言えば、相手を困らせることは、相嶋にもよく分かっている。 しかし、だからといってこのまま流れに身を任せてしまえば、目も当てられないことになるのは明らかだった。だからこそ相嶋は、腹を決めてここへとやって来たのだ。 「このたびの見合いの件なのですが……」 切り出してから気付いたのは、自分の声が壁に当たって響くような、そんな静けさだった。 今日は休日だ。その静寂は、ある意味では当然のものである。目の前の上司や自分のように、ここに来ている者の方が珍しいのだ。 「――突然申し訳ありません。折角ですが、お断りさせて頂きます」 はっきり口にすると決意も改まり、相嶋はまっすぐに相手の顔を見詰めた。部屋の外の物音が耳に届き、世界が回りだす。 相手は、突然の言葉に驚いたようだった。自分の申し出があまりに唐突なことは、相嶋も重々承知している。 「どうしたんだね? 君も先日見ただろう、大変綺麗で、性格も申し分ない娘さんだよ」 不思議そうに身を乗り出して、相手が眉を持ち上げた。相嶋の言葉を一時の気の迷いと思っているらしい。考え直させようとしているのだろう。 「結婚というのは、案ずるより産むが易しとでも言うのかな、意外にいいものだ。まぁ無理にとは言わんが……一度くらい、会うだけでも会ってみたらどうだ?」 その言葉を聞いて、相嶋が「いえ、それもできません」と首を振った。 結婚はしないと決めたのだ。断ることを前提に見合うなど問題外であるし、だいたいそれは相手に対しても失礼だ。 相嶋の頑なな態度を怪訝に思ったのだろう。 「結婚経験者から妙なことでも吹き込まれのたか」と、上司が不審そうに訊ねた。それを聞いて、相嶋はきっぱり「私自身の判断です」と顔を上げた。 「私は……私の両手は、いま持っているもので、いっぱいいっぱいなんです」 そう言って、ちらりと机の下に目をやる。膝の上に広げた両手は、見慣れたようでもあり、どこか違って見えもした。 昨日の今日で思い知ったことではなかった。もっと前からどこかで分かっていたことが、この段になって、ようやくはっきり自覚できた。 ただ、それだけのことだ。 「当家へのご配慮、ありがとうございます。まぁうちは兄弟が多いですし、私が家を継がなくとも、下にまだまだ優秀な弟たちがいますから」 言いながら彼は、ふと実家を思い出した。 実際結婚をして家を継ぐのなら、自分よりずっとしっかり者の弟がいる。長男である自分よりも、家名を考え、一族に目を配ることができる。自分よりずっと家長に向いているのは、言うまでもなかった 「……それに」 もう一つ、昨日のことを思い出して、自然と口調が柔らかになった。 ……――柄にもなくあれこれ考えて悩んだが、結局はそれが自分の等身大なのだ。 そんなふうに、素直に思えた。 「私は、自分が『立派な一家の主』になる自信はありませんが」 けして卑屈になっているのではない。むしろそれを誇るように、顔をあげて胸を逸らす。 「こんな俺にも、奥さん代わりの奴が、ちゃんと内々にいますので」 そう言って、彼は晴々とした笑みを浮かべた。 「……そうか、君の意向はよく分かったよ。先方にも伝えておこう」 「すみません」 相嶋がペコリと頭を下げる。殊勝な態度に相手は「こっちこそ、相手がいるのに見合い話なんか進めてしまってすまなかったね」と笑って、傍らの書類の山をぽんぽんと叩いた。 「それより次の話題だが……さ、君のぶんはこっちだ」 「はい……えっ、俺の?!」 「さっきも言っただろう? 休日だからと部内の皆が休んでしまって、人手が足りなくてね。見ての通り、休日返上してるのは私一人なんだよ」 にこにこと邪気のない笑いを見て、相嶋は一瞬固まったあと、両肩をガクリと落とした。 嫌味でも何でもない言葉に、相嶋は逆らえない。家を出て寮に入った学生時代に、ようやく自覚した。 裏を読む貴族社会に育った相嶋は、まっすぐ向けられた言葉に弱いのだ。 「週末だ、君も午後からは好い人と過ごすんだろう? 昼には帰してあげるから、さくさく取り掛かろうか」 うきうきした声をかわすこともできず、黙ってのろのろと椅子をひく。 ……よしんば愛しい女性が待っていたとしても、うきうきと仕事に取り掛かることなど、相嶋にはおそらくできなかっただろう。 |