きたるべきもの 11

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「君の愛しいお相手に、『引き留めてしまってすみません』とでも謝っておいてくれ」
 書類の山を片付けて、からかいの言葉に送られながら、フラフラと席を立った。相手は何やら勘違いしているらしいが、訂正する気力はすでにない。
 薄暗い部屋を出ると、廊下は光に満ちていた。
(……いい天気だなぁ……)
 少し肌寒い風が、頬を撫でていく。涼やかな外気に惹かれ、相嶋がゆらりと窓際へ並み寄った。
 空が青い。まず空を見上げ、次に首を窓の下へ向けて、おもむろに半身を乗り出した。
「お前も出てきてたのか?」
 窓枠に両腕をついて、からかいの声音で、相嶋が窓の下へと問いかける。
 窓の下に座り込んだ磐佐が、首を反らせて相嶋を見上げ、気まずげに視線を泳がせた。
「……出さなきゃいけない書類があったんだよ。昨日出しそびれててさ」
 事実ではあるのだろう。だがどことなく言い訳がましいその言葉に、相嶋は軽く眉を持ち上げてみせた。
「ほぉ。……で、なんでそんなトコロに座り込んでんのかなー?」
「……………たまたま、お前が部屋に入るのが見えたんで、ここで待ってた」
 じっとその眼を覗き込むと、視線に耐えかねたように、磐佐がしぶしぶ言葉を続けた。
 偶然会ったことにしたかったのなら、せめて廊下で待てばいいのにと、口には出さずに笑みを刷く。
「俺が引き留められたの、朝の話だぞ? また長いこと待ってたもんだな」
 そこまで言って、ふと先程かけられた言葉を思い出し、相嶋が思わず吹き出した。
「……上司が『引き留めてしまってすみません』だってよ」
「俺が待ってんの、知ってたのか?」
「上司は知ってたらしいな」
 それを聞いて、磐佐が窓から中を覗き、相嶋がいましがた出てきたばかりの扉に目をやった。
「……どうやって知ったんだろうな?」
 真意が食い違っていることは胸に秘め、相嶋がくすりと笑う。(まー、実質的には大差ないか)と、一人口の中で呟いた。
 日は高い。
「これから昼食なんだ」と言うと同時に、窓枠の下で、磐佐の腹が豪快に鳴った。それを聞いて、相嶋が声をあげて笑う。
「よし、なんか食いに行こう」
「あぁ。ついでに、聞いときたいことがあるからな」
 憮然とした表情で、磐佐が応えた。



 二杯目の蕎麦をつゆまで飲み干し、磐佐がどんぶりから顔を上げた。
「なぁ」
 正面でうどんを啜っていた相嶋が、口からはみ出たものを啜りあげて、椀の向こうから目を向ける。
「……ん? ナニ、どうした?」
「今朝お前が、上司サンと話してたコトなんだけどな、」
 そこまで言って磐佐はハッと言葉を切り、「耳に入っただけだからな。立ち聞きしたとは思うなよ」と口早に続ける。
「お前が立ち聞きできるほど器用じゃねーことくらい、分かってるっての」
 相嶋が笑うのを聞いて、どこか釈然としないものを感じたが、とりあえず磐佐は「うん」と頷いた。
「……で、お前からは全然聞いてなかったけどさ、」
 そう言いながら丼を置いて、湯呑を取った。視線を泳がせながら、蕎麦湯を一口啜る。ごくりと咽喉を鳴らしたあと、磐佐はちらりと相手の顔を一瞥した。
「見合いするんだって?」
 聞いた途端だった。一度驚いたように目を見開いた相嶋は、次の瞬間、ぷっと小さく噴き出した。
「なっ……お前、……いったい何を聞いてんだよっ……」
 肩を小さく震わせて、何が可笑しいのか、相嶋がくすくすと腹を抱えて笑っている。
「あー、浮気がバレた気分って、こんなんなんだろうなー……」
 眼前の相手は腹を抱えて笑い続けているが、磐佐にしてみれば、何が可笑しいのかさっぱりわからない。きょとんと相手の顔を見ていると、やがて顔を上げた相嶋は、可笑しそうに涙を拭いて息をついた。
「……見合いなー……うん、あれ、断った」
「断ったぁ?」
 相嶋の言葉に、磐佐が思わず聞き返した。
「見合いを? 結婚をか?」
「どっちも」
 抱いていた感情を覆す一言に、磐佐が目を見開いた。
 扉の外でちらりと「見合い」の言葉が聞こえ、少し寂しく、また妙に感慨深く感じたのだ。確かに「結婚しろ」と発破をかけたのは自分だが、言葉にするのと現実とは大違いである。あいつが家族を持つのかと、不思議な気持ちになったのも、つい先ほどの話だ。
 それが?
「なんでまた?」
 訊ねた途端だった。相嶋がいきなり立ち上がって、磐佐の隣にまわり、両腕を伸ばした。
 そのまま磐佐の両肩を――……まるで先日、その存在を確かめた折のように……――ぐっと引き寄せ揺さぶった。

「……うん、俺にはこれで、いっぱいいっぱいだからな」

 相嶋の言葉の、示す真意が分からない。呆気にとられた磐佐が、ぽかんとその顔を見上げる。
 しかし磐佐の困惑など気にもせず、相嶋はさっさと代金を机へ置いて、いつのまにか暖簾をくぐっていた。
「……ほら、行くぞー」
 暖簾の下で、相嶋がちらりと振り返った。
「あ、おい! 待てって!」
 慌てて磐佐も金をその場に置いて、相嶋を追って店を出る。

 翌週からはまた、何の変哲もない日々が始まる。


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