きたるべきもの 6

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 顔を上げると、不精髭を潮に洗われた日焼け顔が、じっと見下ろしていた。
「お前、まだまだ海上にでて数年なんだろうが、ん?」
 片手に持っているのは、先ほど磐佐が海底で拾い上げた、例の『遺品』の一つだろうか。少し歪んだ金盥は、日に照らされてきらきらと光っている。
「ちょっと前までこのフネに乗ってたんだってなぁ」
 上官が、人差し指を伸ばして足元を指示した。船底の下、その水の奥底に眠っているのは、確かに、磐佐が先日まで乗っていた艦だ。
「……はぁ」
 かすれた声で小さく返す。すると微かな声音を吹き飛ばすように、上官が太い笑い声をあげた。
「そうかそうか、そんならお前は、相当な強運の持ち主だってことだな」
 数日移動が遅ければ、また移動の名簿から名が漏れていれば、自分も多分沈んでいた。
 そんなことは、磐佐もよく知っていた。
 この数日、そればかりを考えていたのだ。
 いったい何が、自分と仲間の命運を分けたのかと。自分だけ生き残ったのは、どういうことだったのかと。
 ……――それが本当に、運が良かったと言えるのかと。
「よかったなぁ」
 上官の言葉に、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
 事情を知った誰もが磐佐に、まるで決まったかのように、「よかったな」と声を掛ける。
 しかし磐佐には、それがまったく分からない。
「……『よく』ないでしょう……」
 思わず、声が漏れた。
 すると箍が外れたように、心の中に溜まっていた澱が、一挙にあふれ出した。

「俺だけが生き残っているのに、いったい何がよかったんですか? 他の皆は沈んだんだ。一緒に暮らしていた仲間なら、俺も一緒に沈むべきだったんじゃないんですか。それが一人だけ助かって……」

 いいことなど、なにもないではないか。

 言葉にならなくなり、磐佐は再び俯いた。目の前を、ふたたびあの人影が、ゆっくりと回りながら過ぎていく。
 ――……俺も、連れてってくれ……――
 幻影に、手を伸ばしたくなった。



 しかしその幻影は、隣に人が座る軋みの音に、突然打ち破られた。
「ま……お前の気持ちは、よっくわかるよ」
 先ほどとは打って変わった低い声が、磐佐の耳に流れ込んだ。
 伏せていた顔を上げる。ゆっくりと視線を巡らせると、隣に座った上官は、その顔に薄く笑みを刷いていた。年を経た瞳は、どこか遠くをじっと見つめていた。
「俺もな、同期やら部下やらに置いて逝かれたことがある。自分だけ生き残ってちゃいけないんじゃないかって、俺も思ってたな」
「……なら、」

「でも家内がよ。俺が生きて帰ったのを、涙流して喜んでくれてな」

 そう言って親指の腹で顎を擦り、彼は照れ臭そうに、少しだけ肩を揺らして笑った。
「……家内は、他の誰より俺が無事帰って嬉しいって、そう言いやがったんだ」
 こっぱずかしい話だよなぁと笑って、彼がポケットを探る。見せられた写真はかなり前のもののようだったが、持ち歩いている事実に、思わず笑みが滲んだ。
「お前、嫁さんはいねぇのか?」
 その言葉に、磐佐は写真に目を落としながら、緩く首をふる。そしてふと眼を上げて、「あぁ、でも」と言葉を繋いだ。
「……でも、『お前が生きててよかった』と、言ってくれた同期なら」
「ならやっぱり、お前が生きてたことは『よかった』んだよ。そいつの言うとおり、な」
「そらみろ」と言わんばかりに彼が笑って、磐佐の肩を強く叩いた。
 彼の言葉に、相嶋の台詞が呼び起こされる。
 磐佐を見た途端に崩れた表情と、
 生きているのを確かめる腕の力と、
 静かな廊下に響いた嬉しげな声と。
「よかった……んですかね」
 磐佐が、小さく呟いた。
「当たり前だろ。お前が同僚を亡くして哀しいのと同じくらい、お前の同期は、お前が生きてて嬉しンだ」
 上官が笑って立ち上がり、ぱんぱんとズボンを叩いた。
 相嶋の顔と声を思い出すと、なぜだかほっと安堵して、磐佐も小さく笑みを浮かべ立ち上がった。
 自分の無事を、今なら肯定できた。
「ま、近々その同期とやらに会ったら、酒の一杯でもおごってやれや」
 その言葉に頷きながら、磐佐は再び潜水マスクを取り上げた。


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