きたるべきもの 5

Back - Index - Next



 潜水服に身を包んで、薄暗い海底へゆっくりと、磐佐は潜っていった。

 あたりは静かだった。
 数日前に艦を呑みこんだ海と同じとは、とても思えない。
 しかし事件の知らせなど嘘ではないかと思うより早く、あたかも海底の主のようにその艦影は、磐佐の眼の端に止まったのだ。
 昨日潜ったときには見つからなかった。ようやく視界に捕えられたが、嬉しくなどなかった。
「……これか」
 小さく口の中で呟いて、磐佐はその影に、ゆっくりと近づいた。
 艦全体が大きく傾いているのだろう。自分の知っているのと同じものだとは、どうしても思えない。
 疑いを胸にゆっくりと取り付き、落ちている備品や砲の影を追ううちに、ようやくそれらが記憶との符号を見せ始めた。
「そうか……これが、短艇で……あれが、弾なんだな。……で、こっちはオスタップ(盥)か」
 慣れてしまえば、難しいものではなかった。
 手袋の上から、海底に沈んだものを一つひとつ取り上げて、じっくり眺める。傍らの容れモノにそれらを放り込み、何の資料にするのかと、引き上げられる様を海の底から見送る。
 そして海面に調査船の影を確認して、磐佐はゆっくりと、艦の中へと足を踏み出した。

 そこはやはり静かで、光も届かず、先ほどよりいくらか暗かった。
 何も見えない。
 艦の大きさや形を把握しているからこそ、なんとか前に進めるようなものだ。確かにこれは、この艦や異動先の同型艦に乗りなれた磐佐には、うってつけの作業であると言えた。
「向こうが艦橋で……こっちが艦長室だったな、たしか」
 扉はすでに開いていた。殉職した士官の遺体だけは、早々に引き揚げられたのだ。
 殉職者の合同葬儀は、昨日行われたという。
(……結局、葬式にも出られなかったんだなぁ。後輩甲斐のない男だな、俺)
 そんなことを考えながら、何気なく部屋を覗いてみた。何もないことは承知の上だ。
 しかし下士官や他の兵員達の遺体までは、まだ回収していないと聞いている。
(じゃぁ、まだ皆、ここにいるのか……?)
 廊下に足を進めると、一歩ごとに、ふわりと塵が舞い上がった。手元のライトに照らされて、見覚えのある艦内が、不気味に浮き上がっている。
 やがて目の前に、閉じられたままの扉が現れた。
「ここから、艦内か……――」
 通りなれた場所だった。
 しかし今は、その扉が、他の何よりも大きな壁に見えた。
 そのむこうに何があるのか、分かってはいたが、考えたくはなかった。
(余計なことは……なにも、考えるな……――)
 ひたすら自分に言い聞かせ、磐佐はゆっくりと力任せに、扉を引いた。

 同時に海水の動きに乗って、何かがふわりと、眼前を横切った。
 闇になれた目に、たくさんの何かが浮遊しているのが、うっすらと見てとれた。

 艦内で使われていた、あらゆる日常用具。
 早くも朽ちかけている、種々様々の書籍類。
 どこから入りこんだのか、ふわふわと漂う海藻類。

 そしてゆっくりと、人影が回りながら、磐佐の前を横切った。

 微かなライトの灯りに浮かんだ横顔は、確かに見たことのあるものだった。
 それは、磐佐の動きを止めるには、十分すぎた。





「おぉ、首尾はどうだった?」
 調査の指揮を任されたらしい上官が、磐佐の身体を力任せに引っ張り上げながら、何気なく問いかけた。
 しかし当の磐佐は、血の気の引いた顔で、ゆるく首を左右に振った。
「……あとで書類にまとめておきます」
 それだけ言うのがやっとで、磐佐はそのまま、その場に座り込んだ。
 ともに騒いだ相手であり、ともに暮らした仲間だった。しかし触れても揺らしても答えない、数多のゆらめく人影は、すでにモノでしかなかった。少なくとも磐佐には、そう見えたのだ。
(何で俺だけ、動いてるんだろ……)
 一緒に逝って、しかるべきではなかったか。
 昨日の合同葬儀で、一緒に弔われるべきではなかったか。
 意のままに動く両手すら歯痒くて、ただ黙って座りこんで、磐佐は自分の頭を抱えていた。

 様子のおかしさを察したのだろう。
 見ていた上官が近付いて、磐佐の頭を軽くたたいた。
「……おい、大丈夫か?」


Back - Index - Next




@陸に砲台 海に艦