全力

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 近所の兄貴分に鍛えられた腕力は、同年輩では抜きん出ていた。突き飛ばした年上の相手が怪我をして、ガキ大将になるのと同時に、自分を抑えるのが常になった。
 その常態は磐佐にとって、あまりに普通すぎて、その事実すら忘れていた。
 それから数年、軍人という先を視野に進学してから、何度目かの取っ組み合いになったときであった。
「俺を舐めんなよ……手加減すんな、全力で殴りにきやがれ! でないと貴様とは二度と話さねーからな!」
 組み伏せられて、馬乗りの相嶋にそう言われ、初めて気付いたのだ。

 右足と左手で両肩を押さえ込み、動きを封じ込んだ。息があがる。口の中に鉄錆の味がした。
「……これで満足かよ、この野郎」
 同年代相手に全力を出したのは、生まれて初めてである。慣れていないため、妙な身体の使い方をしてしまったものらしい。節々が痛い。
「まだまだだ、抵抗できなくなるまでボコれよ。でないと勝ちじゃねーだろ」
 負けが確定して、なお偉そうな口ぶりで、相嶋が顎をしゃくった。
 取り囲んだ同期らは、もっとやれと囃す者、そろそろ止めろと口を挟む者など、各々に違う反応を見せ始めている。
「……やめとく」
 身体を起こして口の端を拭い、立ち上がった。
 見物人から、落胆とも安堵ともつかない声があがる。
「お前、まだ言わせんのか」
 憤慨に満ちた声が背後に聞こえる。身体を起こす音に振り返って、磐佐が鋭く右拳を突き付けた。
「お前こそ察せ! これ以上やったら右手が使えなくなる」
 そう吐き捨てて背を向ける。
 すると今まで取っ組み合っていた相手が、真っ先に駆け寄ってきた。
「なんだよ、まだやんのか」
「まさか。俺の負けだ」
 くすくす笑いながら隣に並ばれて、黙って前を向いた。勝ちの爽快感よりも、心中を手に取られた気恥ずかしさが勝る。
「お前、本気で喧嘩し慣れてないんだな」と囁かれて、返す言葉も思い付かないまま、そっぽを向いた。
 先ほど身体を起こした瞬間は、二度と全力で取っ組みあうものかと思った。
 しかし今は、少し違った。
 次にこいつとやり合うときは、最初から本気でかかることにしたのである。


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