「どうかしました?」 「何か、物音が」 聞き覚えのある教官の声が、少し高い所から聞こえた。 見つかった。 そう思った。だが、相嶋に気付いた様子ではない。首を伸ばして様子を窺ってみたいが、互いの吐息すら聞こえそうなこの距離では、下手に動けば見つかってしまう。 耳をすましていると、廊下の向こうで今度こそはっきりと、ガタンと何かの倒れる音がした。 何だ? なにごとだ。 「……ほらまた。ネズミでもいますかね?」 「本当だ。この間、倉庫から色々引っ張り出してしまいましたからね」 「あぁ、例のカッター訓練の……」 再び呟いた教官が、相嶋の一歩手前で踵を返す。二人分の足音がコツンコツンと響き、やがて角を曲がり遠ざかった。 途端、胸につかえていた何かが大きく吐き出された。 (あぶねーあぶねー……) あと数秒タイミングがずれていれば、いまごろ相嶋は掴まっていた。それを思うと、背筋を冷たいものが伝う。 しかし、何の音がしたものか……――ただの偶然か、それとも必然か。 (まさか、な) 心当たりなどあるわけもない。偶然だ。 過ぎった何かを、首を振って打ち消す。廊下を横切って、音を立てないよう注意を払いながら、素早く教官室へ飛び込んだ。 深く息を吐きながら扉を閉める。ようやく安心感が身体を包みこんだ。よほどのことがなければ、わざわざ教官室の中にまで、監視の眼が来ることはないだろう。 安堵と共に視線を室内に巡らせて……――相嶋は再びドキリと身体を凍らせた。 窓の向こうから、何かが見ている。 影の主はすぐに判り、それに従って、相嶋が脱力したように吐き出した。 「……お前かよ」 「窓開けてくれ、入れねぇ」 コンコンと窓ガラスを叩いて、磐佐が鍵を指し示している。外から回ったのかと思えば、それも賢い選択だったかもしれない。しかし引き込み役がいなければ、磐佐のやり方は成功しなかったのだ。 歩み寄って錠を上げてやると、身軽に窓枠をよじ登りながら、磐佐はちらりと相嶋を流し見た。 「よかったな、見つからなかったみたいで」 磐佐の言葉を聞いて、相嶋の目つきが鋭くなった。 「……さっきの、やっぱりお前か」 知っているということは、一部始終を見ていたということだ。先ほどの音を立てたのは、多分こいつなのだろう。それで恩を売るつもりか。 頼んだ覚えはない。傲慢だ。これだから、こういう人種は嫌いなのだ。 しかし相嶋の敵意など知った風もなく、磐佐は一人で窓を閉めていた。侵入の際に退けた物品を元に戻し、鍵を掛ける横顔に、得意げな色は見られなかった。眉をしかめて、置物を並べるのに勤しんでいる。 (……?) 相手の心理を読むのには長けていた。恩着せがましさがないことは、容易に知れた。 (……なんだ?) 予想と違う。 ――読めない。 「……別に恩を売ったつもりじゃねぇし、安心しろよ」 相嶋の意を汲んだかのように、磐佐が低い声で呟いた。 ――意味が分からない。 助けたなら、恩があるはずではないか。 恩着せがましくされたなら、さらに腹立ちもしただろう。 しかし恩を売っていないと言われると、むしろその不自然さに気付かざるを得なかった。理に合わない。 不審な視線のままに相嶋が磐佐を見詰めると、上着に頭を突っ込みながら、磐佐が低い声で相嶋に言葉を返した。 「だって当たり前だろ。いくらお前でも同志なのに、それを見捨てられるか」 「…………へぇ」 その言葉に、相嶋の口許が僅かに緩んだ。 引き結ばれた感情の瘤が、僅かに解けた。 その考え方は、嫌いじゃない。 「それよりとっとと探すぞ」 「あぁ」 磐佐の言葉に、相嶋は初めて、真っ直ぐな言葉を返してやった。 嫌いじゃ、ない。 |