生徒達 5

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 背を向けて駈けだそうとしていた相嶋は、中腰のまま目の前の人影を凝視した。同時に振り返った人影が、立ち上がりかけた姿勢のまま、相嶋にじっと視線をそそいでいる。
 闇の中で、まるで置物のように、二人の動きが止まっていた。

 ……そして、二人が同時に眉を顰めた。この世の終わりのような顔だ。
「なんだ、テメーか」
 相嶋が沈黙をやぶり、言いながら人影に近付いた。
 足音を立てないよう細心の注意を払いながら、声にならない音が一度で相手に間違いなく伝わるよう、顔をまっすぐ相手へ向ける。
「お前も来たのかよ。……ツイてねぇな」
 磐佐が小さく呟いて、深い溜息を一つ吐く。
 まさか同じ日に来ると思わなかったのは相嶋も同じで、静かに立ち上がった磐佐の傍へ歩み寄ると、肩を追い越して窓に近付きながら「お前には言われたくねーよ」と毒づいた。
「なんで上ェ脱いでんだよ、この阿呆」
「真っ白よりマシだろーが」
 言いながら、窓を覗き込む。
 視線を窓枠に沿わせれば、鍵の掛かっているのが簡単に知れた。
「……それもそうだな」
 左右を確認する隣で、磐佐がごそごそと上着を脱ぎ捨てている。くぐもった小さな声が「そこの鍵は閉まってんぞ」と言うのを聞いて、相嶋はとっさに窓枠から離れた。
「分かってんだよ、ンなことくらい。だからどうした」
「わざわざ教えてやったのに、素直じゃねぇの」
「……ホントお前って腹立つわ」
 左右を確かめながら低く発した声音に、磐佐がじろりと炯眼を向ける。
「お前にだけは言われたくねぇな」
 途端、二人の耳にコツリという微かな音が響き、二人は同時に小さくなって壁に張り付いた。
 コツリ、と硬質な音が窓ガラスを透かす。
 壁一枚向こうを、靴底が廊下を叩いていく。
 大股で早足のはずの音が、妙にゆっくりとして耳に届く。
 そして二人が隠れている窓の傍にきた瞬間、コンと余韻を残して足音がとまった。
「……!」
 二人が思わず顔を見合わせた。
 見つかったか。
 しかし二人の焦りは杞憂だったようで、そもそも最初から足を止めてもいなかったのだろう、そのまま靴音は何事もなかったかのように遠ざかって行った。
「……はぁー……」
 靴音が聞こえなくなり、それからまた数秒様子を窺って、二人は大きく息を吐き出した。
 心臓に悪い。
「……見つかってなかったか」
 小さく磐佐が呟くのを聞いて、相嶋も首を縦に振る。
「みたいだな……」
 言いながら、じっと耳を澄ませて気配を確かめた。誰かは、そのまま階段を上って行ったようだ。
 窓の向こうを覗き込んでいると、隣で磐佐がごそりと身じろぎし、ゆっくりと身体を動かした。視線を遣って気付いたのだが、彼は素足で動いている。
「……俺は向こうから回る。邪魔すんなよな」
 言いながら既に歩きだした彼の背中へ、相嶋も低い声を投げかけた。
「俺はこっちから行くからな。真似すんなよ」

 足音が消えた。
 気配もなくなった。
 周囲には誰もいない。
 それを確認して、相嶋はこそりとポケットから小さな針金を取り出した。
 昔から手先の器用さで、数知れない悪戯をなしてきた。開き戸の鍵くらい、彼の指先に掛かれば敵ではない。
「……よし」
 僅かな隙間から、曲げた針金を入れる。昼間に何気なく、鍵の形状を確認しておいたのだ。今でもありありと思いだすことができる。
 指先にすべての感覚を集中する。
 差し込んで小さな突起に引っ掛け、少し引っ張り、再び針金を奥まで差し込んで、今度は窓を軽く持ち上げて、出来た隙間に針金を差し込む。
 ……――開いた。
 音もなく錠が開いた。見知らぬ錠でも十数秒で開けられる。ましてや勝手知ったるものなら、掛かる時間は瞬きにも変わらない。
(呆気ないな)
 思いながら針金を戻し、窓を引いた。キィと僅かに軋んだが、時間を喰う方が不利だと判断して、即座に窓枠によじ登った。
 音もなく廊下に降り、窓を閉め、身体を低くして辺りを見回す。
(これなら行ける)
 磐佐が見つかればいいと思っているわけではないが、彼が身を隠すのに精一杯になれば、それだけでかなりの時間を無駄にすることだろう。
 その点相嶋の選んだ経路なら、問題は皆無だった。見張り人の背後を追えば、正面から遭遇することはまずないからだ。
 身体を低くしたままに先ほど足音が去った方へ、相嶋が静かに身体を向けた。
 教官室まで数歩、距離はない。大股で飛ぶように教室に近付き、扉にそっと指を掛けた。

 コツンという硬質な、そして聞き覚えのある忌まわしい音が耳に届いたのは、その刹那だった。

 そして少し遅れて届いた、低められた話声に、背筋が凍った。
(まだ居たか……!)
 思わずその場で息をのみ、相嶋はとっさに左右を見回した。すぐ傍の曲がり角に飛び込み、息を殺す。
 先程と同じ方向から、同じような足音が聞こえる。しかも二人分だ。同じ人物であるはずがない。見回りをしている者が他にもいたのだろう。
 とっさに傍の時計の陰へ滑りこんだが、足音は無情に近付いてきた。
 コツンコツンと大股で素早い歩きが、廊下の空気を動かしている。硬い良質の靴底は教員のものに間違いない。その靴底が廊下を打つ。
 近づいてくる。
 あと十歩。
 九、八、七……――
 じわりと掌に汗が滲んだ。
 六、五、
 四、
 三、

 足音の主の吐息が耳に届くと、観念の二文字が脳裏に廻った。
 そして、視界に教官飾緒が揺れた。

 二、

 一……――

「……――あ」


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