第十五章 三矢陣 −1−

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 戌亥の刻である。
 数多の軍船が、ゆっくりと大元浦目掛け、櫓を漕いでいた。勇ましや、総大将毛利元就の三男隆景率いる小早川水軍の一団である。
 村上水軍とまでは及ばないが、小早川水軍も瀬戸内にその名を轟かせる、海の一大勢力であった。清廉に屈強さを併せもった小早川は隆景統率のもと、陶を討たんとする毛利の傘下として、この戦に参加しているのである。
 辺りはいまだ風雨止まず、高波が船端を幾度もあらう。
 しかし小早川は海に慣れたもので、狼狽の色を見せるものはない。その目はじっと厳島にそびえる弥山の影を睨み、己が出番を待っている。
 櫓の音すら掻き消す海を突っ切り、やがて船が頭を島へ向けた。大元浦を右手に見越し、大船団がゆっくりと沖を廻り、大鳥居を臨む。
 漕ぎ手が動きを変える。船がその場に留まり、高波に大きく揺れる。
 美貌の横顔を山々の影に重ねた隆景へ、傍へ使えた乃美宗勝が低く問いかけた。
「若殿、このまま鳥居正面へ漕ぎ寄せますかぃ」
「あぁ、そうしよう」
 隆景が、落ち着いた口調で応える。
 厳島西岸の制圧が、小早川水軍の任務である。本来であれば、西岸の陶を広く抑えねばならない役どころだ。
 しかし折からの悪風で、陶はその船をただ一カ所、厳島大鳥居の周囲に集中させていた。船同士を綱で固く結び、流されぬように隊伍を組んだ姿は、まるで橋を掛けているかのようである。
 乃美宗勝が半身を船から乗り出して目を凝らし、黒々とした船橋を見つめていると、ふと隆景が呟いた。
「どこかに船を繋げられないだろうか」
 何のことかと、乃美宗勝が振り返る。じっと厳島を見つめていた隆景は、乃美宗勝の視線に気がつくと、少しく首を傾けて匂やかな苦笑をみせた。
「どこか、船を止めるところはないかな。いつまでもここに、水母のように揺れているわけにもいかないから」
「水母よりは、骨ある連中と思いますがね」
 乃美宗勝が小さく笑う。そして周囲の軍船を見回し、隆景に応えるように軽く肩を竦めて息を吐いた。
「ま、ここで夜明けまで待つんじゃ、さすがの水母も船酔いしますかな」
「夜明けまでまだ遠い。これから何刻もここで待つのもな」
 隆景率いる別働隊は、先陣が動くのを見、陶を内から崩す手はずになっている。
 厳島の山並みを一瞥して、隆景は、意識的に肩の力を抜いた。先陣は夜明けを見計らい、陶を奇襲するという。その先陣の元春すら、まだ位置についてはいないだろう。
 兄について心配はない。降り続く雨で、その足音は掻き消されるに違いない。もともと武勇に優れたる次兄のこと、その戦勲に不安はなかった。
「むしろ我ら水軍の船酔いの方が気になるとは、悠長な戦なことだ」
 恐れすら感じない自分に息を漏らし、隆景は視線をぐるりと廻らせた。
「本当は、大元浦に船を留めたかったが……」
 先程行きすぎた大元浦は、船を留めるには絶好の地形であった。ただ、そこはあまりに敵に近すぎた。数名が見回っているのは、すでに目に入っている。そんなところにひっそりと入り込んでは、自分は敵だと周囲に告げているのも同じだ。自ら敵の懐に飛び込んで、首を取ってくれと言うようなものである。
 隆景はゆっくりと、両腕を組んで辺りを見回した。
 どこか、良い場所はないか。
 助けを求めるように、傍の乃美宗勝へ視線を寄こす。途端乃美宗勝は、にやりと笑みを見せた。その手が持ち上がり、握った拳の親指が大鳥居を指し示した。神をも畏れぬ不遜な態度に何か含むものを感じ、その声が聞こえるようにと、隆景が静かに顔を寄せた。
「……なんだ?」
「いっそうのこと敵船中を押し抜けて、鳥居の近くに船を留めましょうや」
「……鳥居の、近く?」
 鳥居を押し囲むようにして、入江いっぱいに陶の軍船がひしめいている。その中を押し抜けるというのか。
 一体、どんな含みを持っているのか。
「それこそ、飛んで火にいる何とやら……ではないのか?」
 隆景が小首を傾げると、乃美宗勝は笑みをさらに深くした。そしてぐるりと自軍を指し示し、あたかも確かめるかのように、隆景に目配せを送った。
「若殿、我らは筑前の国より援軍に参った、陶の味方でござる」
「……――あぁ。なるほど、そういうことか」
 乃美宗勝の言葉に、小早川隆景が口角を持ち上げた。
 この暗闇である。旗の紋も読めぬに違いない。隆景自身は陶晴賢と面識があったが、当人は今頃幔幕の奥にいるはずだ。いままさに鳥居周囲に船を巡らせた雑兵どもの、誰が毛利御曹司を見知っていようか。
 謀略の得意な元就の血を継いで、小早川隆景が鳥居を指差した。
「よし、全軍、敵中へ潜ることとする。皆の者、怯まずついて来よと伝達せよ」

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