第十二章 地御前 −2−

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 赤川元助の顔に、ほっと安堵の色が浮かぶ。幼い頃に人質として大内に使わされていた隆元は、陶晴賢とも懇意であった。今回の戦をもっとも推進したのは隆元だが、かつては大内義隆のもとでともに過ごした者同士、陶晴賢と実際に対峙してひるまぬとも限らない。優しい気性の隆元が、いざ陶晴賢と対峙したとき、刀を振るえるかは分からないというのが赤川元助の意見なのである。
(隆元様には浜で、我らの帰りを待っていただきたいものだが)
 簡単に引き下がる隆元でもない。そう思うと、赤川元助の口から自然と溜息が漏れた。それを隣の桂元澄がちらりと視界に入れると同時に、件の人物が姿を現した。すでに具足に身を包み、いつでも出陣できる用意を調えている。
「お呼びですか、父上」
「おぉ隆元か。いままでここにいる元澄と、元助とも話しておったのだ」
 元就の言葉を聞いて、桂元澄が物言いたげに顔をあげた。「隆元の意に沿わないことを、わざわざ言うのも気が引ける。せめて、家臣の意見であることを強調しておこう」と、そういう腹らしいのだ。
 しかし聡明な長男は、元就の腹をすぐに見抜いていた。そもそも家臣の意見といえど、元就が呑んだからこそ自分が呼ばれたのである。
「前口上はいいですから、父上、出陣前になにを仰りたいのです?」
 口調が荒い。元就が何を言わんとしているのか、察している。
 それでも言わねばならないと、元就がためらいがちに息子にいいわたした。
「隆元。こたびお主は、元澄とともにここに留まるのじゃ」
 それを聞いて、隆元はしばらく黙っていた。それに力を得て、元就が言葉を続ける。
「もしもお主に何かあれば、毛利家そのものが危うくなる。けしてお主の力を知らぬわけでも、信じておらぬわけでもない。しかし万が一ということがあろう」
 しかし突然顔を上げた隆元は、突如自らの具足の上帯をとると、すらりと刀を抜いて言い放った。
「元澄殿の申す通りとなり、自然この戦で毛利が絶えるならば、毛利はそれまでということでござりましょう。それならばこの隆元、なおのこと毛利軍の先に立ち、父上元就公とともに厳島に渡ります」
 言ったかと思うと隆元は、突如刀を振りかざし、驚く三人の前で二度と結び直せぬように具足の紐を断ち切った。そしてそのまま誰より先に、元就と同じ船へと乗り込んでしまったのである。
 唖然としてそれを見ていた桂元澄が、にやりと笑って元就の顔を見た。
「まったく、誰があのように育てたのやら」
「大内義隆殿も陶晴賢殿も、人の育て方を知らぬとみえる」
 陶晴賢がいる厳島を見やり、元就がうそぶく。赤川元助が溜息をついて、やれやれと苦笑した。
「……まぁ、しかたありませぬな」
「これでますます、わしらは勝たねばならなくなったな」
「絶対に負けぬというのであれば、わしがここに留まる意味もないということじゃろう。ならばわしも、厳島に渡ろうかい」
「いや、元澄は残るのじゃ。乗る船の割り当ても、名を記してもおらんからのぅ、今更老人一人連れていけるものか」
 元就の言葉に、「結局わしだけ留守番かい」と桂元澄がぼやいた。
「まぁそう言うな。陶晴賢の首実験は、桜尾でおこなおうぞ。その準備でもしておけ」
 元就が笑う。続いて赤川元助が、「隆元様はお任せ下され」と笑って、ゆっくりと立ち上がった。

「一夜陣である。全軍、厳島へ!」






 強風吹き荒れる波高き瀬戸の暗闇を、何十もの影がいく。微かな櫓の軋みすら風の音にかき消され、どこまでが海でどこからが空であるのか、右を見ても左を向いても見ても分からない。まるで地獄への道行のようだと、緊張が染みわたる。
 確かなことは、この行軍が陶に知られているはずのないこと、ただ一つであった。
 そしてその一つこそが、毛利元就率いる三千余の軍勢に、勝鬨を約している。






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