第七章 謀略 −2−

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 ――あの日、江良房栄にとって、それはすでに確信に近かった。
 そしてすぐに弘中隆兼に声をかけられた。きっとその感情が、そのまま顔に出ていたのだろう。
「のう、弘中殿……お主は分かっておったのだろう。毛利元就は絶対に、自らに不利な噂を流したりはしないと」
 となればあの噂は、やつが意図的に流したものだ。
 海路を恐れるように見せかけている。つまり元就には、海路をもって攻められることに、絶対の自信があるのだ。
「しかし陶晴賢殿は、海路を選ぶじゃろう……――」
「そうでござろうなぁ……」
 三浦房清の言葉に頷く陰には、絶対的に有利な条件を見つけて猛進してしまう、聞かん坊な陶晴賢の影しか見えなかった。
 おそらく陶晴賢は、誰が何を言っても、きっと海路を選ぶ。
 毛利元就の罠に陥るだろう。
 それをどうする力も、江良房栄にはないのだ。
「……500貫を、求めたのじゃ」
 そう言って、江良房栄が朗らかに笑った。

 琥珀院の一室。
 江良房栄と対峙している弘中隆兼のみが、閃く白刃を握っていた。

「500貫も求めれば、元就がお主を売ることくらい、分かっておっただろうに……っ!」
 弘中隆兼が歯を食いしばり、泣くのをこらえるように言い捨てた。
「おかげでわしは、お主を斬らねばならん……っ!」
「毛利の大名は、桂や児玉でも300貫ばかりしか持っておらぬ。それくらい承知の上じゃ」
 対する江良房栄の言葉は、とても静かで穏やかなものだった。

 陶晴賢から弘中隆兼へ、命令が下ったのである。江良房栄が陶を裏切り、毛利に着く気配があるのだと――そうなるまえに、江良房栄を斬り捨てよ、と。
 裏で手を引いているのは、間違いなく元就だ。
 予想外の報酬を要求されたために、元就は江良房栄を引き入れるのをあきらめた。のみならず、陶晴賢が江良房栄を殺すよう仕向けたのだ。
 すべては有力武将である江良房栄を、厳島の戦に先んじて討ち取らせてしまおうという元就の策略だ。それも、仲間である陶の手によって。
 そのすべてが、弘中隆兼には手に取るようにわかった。
 しかし、
「これは元就の罠でござろう! 今一度、江良房栄にお確かめ下され!」
 陶晴賢に何度そう進言しても、彼は首を縦に振ろうとはしなかった。

 姿勢よく坐したままの江良房栄が、ゆっくりと肩を下げた。身体の力を抜いて、視線を下げた先には、弘中隆兼自慢の太刀がある。
「無茶を言うたのは分かっておった。毛利元就に殺されるだろう、ということも……お主が遣わされよう、ということもな」
「ではなぜ……っ!」
 弘中隆兼は、江良房栄を斬りたくはなかった。戦友だ。幾度も同じ戦場を駆け抜けた。二人ともに、ここまで陶晴賢を支えてきた。
 血が滲むような声で、弘中隆兼が詰め寄る。最期に自分を苦しめるようなことを、なぜするのか、と。
「……どうせなら、お主の太刀に斬られたかった」
 江良房栄がそう言って、視線を外へやった。
 空が青く、どこまでも澄み切っていた。


 浄土があると言う西方に、燃えるような夕日が傾くころ。

 太刀に滴る鮮血を懐紙でぬぐい、弘中隆兼は太刀をそのまま、琥珀院へと預けた。
 きっと取り寄せに来るものがいるからと、彼は妻の名前を言い置いた。
 江良房栄を斬れと言われ、刀をひっさげたそのときから、弘中隆兼には自らの末路が手に取るように分かっていた。

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