触れることは愚か、言葉を交わすのも、二人きりになることも避けるだろう。
 そう信じて疑わなかったところに肩を叩かれて、振り返った刹那に目が合い、息が止まった。
 当人が自ら触れ、話しかけてくるとは思わなかったのだ。
 どういうつもりなのか。
 あのときと違う表情を浮かべた、あのときと同じ瞳を避けるように、咄嗟に視線を手元へ移した。
「なんだ」
「これが当直、それでこっちが副直の名簿だ。確認を」
「了解」
 受け取って紙面をめくりながら、何度も自分に言い聞かせる。
 私情と仕事は別ものだ、ここで動揺してはならない。心中を隠すのは得意技だっただろう。
「印鑑がいるな……」
 部屋の鞄に、保管してあったはずだ……――いやその前に、幕僚で廻さなければならないか。
「こっちで見てから返すから」
 そう言って、手近な机でとんとんと書類を整えた。ぱらぱらと枚数を数え、再び整える。
「明日が締め切りなのを忘れてたんだ、今日中に頼む」
 またか、と口許に小さな笑みを浮かべた……はずだった。
 しかし頬が少し横にひきつれただけで、笑みというには程遠い表情が、貌に張り付くのを感じた。

 駄目だ、笑えない。いつも通りになど、できるはずがない。
 そもそも、いつもって何だ? いままでどんなふうに接していた? どんな顔で笑ってたっけ?
 思い出せない焦りが、からからと咽喉に絡み付く。

「分かった」
 なんとかそれだけ絞り出し、うつむいたまま身をひるがえした。

 さりげなく、大股に、無人の士官室へ滑り込んだ。後ろ手に扉を閉める。見れば、手が震えていた。唇を細く開けて息を吐き出し、それまで息を止めていたことに、初めて気が付いた。
 そうだ、昨日のちょうど今頃、その口唇で、その腕で、
 すべてを壊したのだ。……――壊したはずだ。壊した、のに。
「どういうつもりだよ……」
 渇いた笑いが開いた唇から洩れて、部屋の底に沈殿した。
 何故あんなに『普通』なんだ?
 まるで、なにごともなかったかのように……――

 そして、『その可能性』に思い至った瞬間、ぞっとした。

「……なんだ……そんなことかよ……」
 あまりに簡単な回答にしばらくは、自分が笑っていることすら、気付くことができなかった。

 なかったことにされたのだ。


 あの出来事だけではない。


 友であった年月までまとめて、なかったことにされたのだ。






 考え過ぎ症候群発症。感染性が高く、人によっては超短期間で治癒する特徴を持つ。
 だから笑うところだってばwww