第十一章 一夜陣 −3−

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 暴風雨が激しく海を叩く。
 天地に雷鳴が轟き始めた。

 ときは酉の刻、厚い雲が夕暮れを夜の色へと染めている。
「……本当にこの海を渡るのでございますか」
 波しぶきも高い浜を見渡して、声の晴れぬ者があった。金山城から奇襲のために駆けつけていた、赤川元助である。
「なんだ、怖いのか」
 気弱な言葉を聞いて、隆元がからかうように声をかけた。
「まさか! しかしもしも海に落ちれば、若殿、命はございませぬぞ」
「大内春持殿のことを言っているのか」
 かつて陶晴賢の主人であった大内義隆、その養子であった大内春持は、20歳という若さで溺死した。
 それが大内義隆の武離れを起こし、そして陶の叛乱や今回の出陣まで引き起こしたこと、鎧の重さに身を河の底へ沈めた事実も記憶に新しい。わずか10数年前のことなのである。
 大内春持が隆元と一つ違いだったこともあり、隆元贔屓の赤川元助が水難を危惧しているのは、理解できないことでもない。
「確かに少し、危ないやもしれぬの」
 年長者である志道広良が、考え深げに海を眺める。志道広良にとってみれば、大将元就も息子のようなもの、隆元は孫にも似た存在なのである。その身を心配するのは、身内としての感が強い。
「志道広良殿も、こう申されております」
 なんとか考え直してはもらえないかと、赤川元助が元就に詰め寄った。
 しかし赤川元助の反対から、桂元忠が断固として首を横に振った。
「いや。ここは大殿の命に従うて、厳島にわたるべきじゃ」
「そう申されるからには、根拠はおありなのでござろうな」
「お主は一つ忘れておる。もしここで此度の出陣を諦めるとするならば、小早川隆景殿はどうするつもりじゃ?」
 それを聞いて、赤川元助が苦虫を噛みつぶしたように黙り込んだ。
 元就率いる本陣、そして次男の元春率いる先陣は、厳島の東を目指す。
 そして小早川隆景率いる別働隊は、村上水軍を従えて、厳島の西から挟み撃ちにする計画なのである。
 小早川隆景は、すでに海の向こうで、刻を待っているはずであった。
 それぞれの言い分を聞いて、周囲もざわざわと、意見が分かれ始めた。

「敵が油断する今夜こそ奇襲の好機、厳島大明神の御加護であろう」
 ざわめきを遮ったのは、元就の低い声であった。
「赤川元助よ、お主は誰より賢明じゃ」
「はっ……?」
「陶晴賢は、お主と同じくらいに賢明な男じゃ。あやつも自然、同じことを申すはず。……ならば今こそ、出陣の好機。この元就、いまばかりはお主よりも愚かになろうぞ」
 そう言って、元就が笑う。
 この天候のもとで出陣するのは、やはり誰が何と言おうと愚かしい。
 大内義隆にとって懐刀であった陶晴賢であれば、その豊かな知識と才覚でもって、そのように判断するはず。
 だからこそ、裏をかく。
「大内をあれほどまでに大きくしたのは、陶晴賢じゃ。毛利はそれを、誰より知っておる」
 敵ながら、天晴。
 陶晴賢の実力は、彼に頭を下げていた元就も、幼少より傍で見ていた隆元も、骨身にしみて分かっている。
 だからこそ、何年にも及ぶ謀略を駆使して、今日のこの日を待ったのだ。
「この天候こそ、好機」
 独り言のように、再び元就が呟いた。

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