「ほら、水。具合、悪くないか?」
 風呂からあがり、少しふらつく槙を心配し、身を整えている間も、普段からは考えられないほど
大人しく従っていた。

 コップを渡し、その向かいに腰を下ろす。水を一口含むのを見やると、一緒に持ってきた救急箱を
開け、手を差し出した。
「…?」
 一口含んだ水にこくんと咽喉を鳴らした槙は、その手と伊多の顔を見比べた。
「腕、出して。傷、手当てしないと」
「あ……いい、よ。擦り傷だし。もう、痛く、ないし…」
 コップを脇に置き、槙は薄く笑みを浮かべ首を横に振った。だが伊多はその腕を静かにとり、少し深い
傷をなぞった。
「ぃッ…!」
「ほら…まだ血がにじんでる傷もあるし、数も多い。こういう小さい傷の方が結構痛かったりするだろ。だから」
 言うことを聞かない子供を窘める様な、それでいて心配もにじませる声音と表情に、槙はそれ以上何も言わず
大人しく手当てを受けた。

 消毒し、薬を塗り、くるくると包帯が巻かれていく自分の腕を、槙はぼんやりと眺めていた。
「よし、と。終わり」
 ぱたん、と役目を終えた救急箱の蓋が鳴った。
「案外、器用なんだな」
 綺麗に巻かれた白い包帯と、指のところどころに貼られたカットバン。意外な面を見た気がした。
「ん?まぁ、それくらいはな。両腕だからちょっと大げさになったけど」
 伊多は小さく笑うと、救急箱を寄せ、槙の手をとり軽くさすった。
「他に痛いとこ、ないか?」
「大丈夫…」
「ん。じゃあ、少し休め。傍にいるからさ」
 肩を軽くたたき、休むよう促す。
 しかし槙は俯き、動こうとしない。
「槙?」

「……突然、だったんだ」

 ぽつりと、槙の声が聞こえた。

「え…」
「突然だったんだ…見たことない奴らに囲まれて、捕まって…振りほどこうとしたけどだめで、縛られて…」
 突然話し始めた槙を、伊多はただ見ているしかなかった。ポツリポツリこぼしてただけだったのが、
きゅっと拳を握ると、それが一気にあふれ出した。
「なにされるんだろうと思った。身ぐるみはがれて殺されるのかとも思った。そしたら…そしたらいきなり
服脱がされて、あちこち触られてっ…、もがいたけど3人に抑えつけられてどうにも出来なくてっ、」

「…無理矢理さ、突っ込まれたんだ。すっごく痛くて…気持ち、悪くて…それなのに、っ、ナカに、出されて…」

「でも終わったから、ほっとしたのに、2人目3人目って、輪姦(まわ)されて…もう、無茶苦茶だった。…結構、ナカあっただろ?
腹ん中気持ち悪くて、でもやめてくれなくて…何度も、何度も…!」

 にぎりしめた拳が震えていた。
 そんな輩は場所を選ばない。後ろ手に縛り、仰向けに無理矢理揺さぶったのだろう。それゆえの、両腕の無数の傷。

「もう、早く終わってほしくて、それしか考えられなくて、いつの間にか、気を失ってて…目が覚めて、気づいたらお前の
ところに来てて……ははっ、情けないよな、たった3人の、同じ男に拉致られて、ヤられるなんて、さ…」

「俺…」
「もう、いい」
 
 聞くに堪えられなくなり、伊多は槙の腕を引くと強く抱きしめた。
「っ…」
「もう、いいから…」
 
 身体を震わせ、恐怖であったろう出来事を語る彼の姿がいたかった。自分は何もしてやれない。
それがすごくもどかしかった。
「ごめん…」
  ただ、それしか言えなかった。
「なん、で」
「つらい時に、傍にいてやれなくて、ごめんな…」

 相手を探し出してどうにかしたいとは思わなかった。過ぎたことを悔やんでも遅い。それよりも、この先、
このような理不尽な事が起こらぬようにしなければいけない。その思いが強かった。

 思いつめたように、自分を抱きしめ謝罪の言葉をこぼす伊多。
 こんな彼は初めてみる。いつも天然で、困るほどの無邪気さを見せるのに…

「なぁ、伊多」
「ん…?」
「…抱いて、くれ」

 思わぬ槙の言葉に、伊多ががばりと身体を離し、戸惑いの表情を彼に向けた。
「な、何言ってるんだ、そんな身体じゃ負担にしかならない…ナカも、少し傷ついてるんだ」
「いいんだ…して、欲しいんだよ」
「でも、」
「伊多に、抱いてほしいんだ。たのむ…」
 槙はそっと伊多の胸に顔を寄せた。見知らぬ輩ではなく、慣れ親しんだ、伊多の匂い。それが欲しくて
もう1度、今度は名前で懇願した。
「頼むよ…裕也だけ、俺は、欲しいんだ」

 どちらかというと意地っ張りで、甘えたところを滅多に見せない槙が、自ら身をゆだねようとしている。
こんなタイミングでなければ、自分は飛んで喜んだだろう。しかし、今は、素直に喜べない。
 負担はかけたくない。だがしかし、こんな時だからこそ、応えてやるべきなのか――
「……負担は、かけたくないんだ。いつも言ってるけど、俺は、槙にも気持ち良くなってほしいんだ。辛い思いは
させたくないんだよ…だからさ、」
 槙の頬を両手で包み、あげさせた。そして軽くその唇をついばむと、少し困ったような笑みを浮かべた。

「だから、そんな、泣くなよ」

 言われて初めて、槙は自分が泣いていることに気がついた。涙は頬を伝い、伊多の手を濡らす。濡れた伊多の指が、
優しく涙を掬った。
「あ…」
「無理するなよ…強がってたら辛いだけだろ?」
「…っ、つらいからっ、だから、尚更、裕也でいっぱいにしてほしいんだよ…!」
 頬を包む伊多の腕に手をかけると、涙でぬれた目を向け絞り出すように言った。
「…わかった」
「ごめ、んっ…!」
 縋る様に、伊多に体重を預ける。すると頭の上から溜息が聞こえ、槙の生渇きの髪をくすぐった。
「まったく…せっかく風呂入って傷の手当てもしたのに。またやり直しだな」
「あ、…わる、い」
「悪いと思ってるんだ?じゃ、その責任とってもらおうかな」
 悪戯っぽく伊多が笑う。
「あ、でも辛かったら言えよ?次回の貸しにしとくから、さ」
 場を和らげようとする、伊多の皮肉に、槙も思わず笑みをこぼす。
「ん…いくらでも、責任、とってやる」

 伊多は槙の額に軽く口づけを落とすと、ゆっくりと、背後の布団へ横たえた。
 壊れ物を扱う様に、全てをぬぐい去る様に、その身体を優しく拓いていった。

   未だ強く響く雨音が、
       全てを流し、かき消すまで――






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