落丁頁

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 深夜に目を覚ました。
 誰かが還ってきたのかと、相嶋は視線だけで周囲を見回した。が、誰もいない。
 独り暮らしている身である、当然のことだった。風の音か家の梁が軋むのを、人の気配と勘違いしたのだろう。でなければ、夢でも見たのかもしれない。
(まだ夜中、か……)
 体勢を変え、再び枕に頭をつける。
 ――しかし目を閉じてみても、しばらく睡魔が戻ってくる気配はなかった。
「……はー……」
 布団の上で身体を起こして両手に顔を埋め、深く息をついた。
 暖かさを抱きかけていたのが、夢の続きのように、ぼんやりと余韻を残していた。
『おかえり』
 その一言を口にするため、目を覚ました。
 誰も帰ってこないのは分かっている。それなのに誰かが帰ってくるのを、相嶋はもうずっと待っている。
 ――自分が誰を待っているか、相嶋は遠の昔に気が付いていた。

 かつて独身同士、ともに暮らした友がいた。

 相方が深夜に帰宅すると、目を覚まし、一言交わしていた。それは、おかえりであったり、ただいまであったりした。夕飯の残りを指し示したり、翌朝の起床時間を聞いたりしたこともあった。
 一人暮らしが長く、血族との繋がりも薄い相嶋にとって、そうした会話は温もりそのものと言えた。


(……いや、こんなのはただの感傷だ)
 自分は何を考えているのかと、軽く首を振る。
 過去に、――いない人間に縛られるなど、自分らしくない。
(……会えないだけだ、死んでようが生きてようが、何も変わらない……ただ、習慣が抜けないだけだ)
 自分にそう言い聞かせ、再び眠りにつこうとした。


 そのときだった。

『ただいま。……起こしたか?』

 彼の声が、耳の奥にこだました。


「……――いわ、さ……?」
 口をついて出た、数週間ぶりに彼を呼ぶ声は、わずかに掠れていた。
 彼に向かってなにかを言うことも、彼の口からその声を聞くことも、二度とない。彼が帰ってくることも、それどころか、もう会うことすらない。
 呼ぶ声は、もう二度と、彼には届かない。
 分かっていたはずだった。しかし理性と感情は、まったく別のものだった。

「……あ……?」

 突然手に落ちたものに、相嶋は思わず目をしばたいた。
 薄暗がりで驚き広げた手の平に、見る間にぽたりと数滴、冷たいものが落ちる。

「え……あ、……」

 自分が泣いているのだと気づくまでに、しばらくの時間を要した。
 そして相嶋は、唐突に、いまさらのように、理解した。



 気付いてしまうと、もう、止まらなかった。
 嗚咽の奥で、返事をする者の無い呼び声が、何度も繰り返された。
 人に見せるようにはできていない涙が、夜の暗がりに落ちて、吸い込まれて、消えていった。





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