慕い人

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 書類を数枚持って、サインと押印を貰ってくるだけの、いわゆる『ガキの使い』というやつだった。
「ンな誰にでもできるような仕事を、この俺にさせる気かよ」
 榊原に言わせれば、そういうことになる。事実それは、エリートに数えられる榊原には、少々役不足であることは否めない。
 しかしその後、行き先を聞くやいなや、榊原は即座にくだんの紙片を取り上げた。
「行ってきます、俺が、すぐに」
 ついでに表敬の挨拶に赴くからと、紙片の押印欄に目を走らせて、口の端に微かな笑みを浮かべる。そしてその日の夜には、榊原は早速、夜行列車に飛び乗っていた。


 朝靄のなか、寝ぼけまなこを擦りながら改札口を抜けると、突然片手が軽くなった。荷物を詰め込んだカバンが、前触れなく手から奪われたのだ。
 榊原が、早朝からスリでも出たかと顔を上げるより早く、聞き覚えのある声が耳に届いた。先んじて送った電報は、効果てきめんだった。
「よぉ、久しぶり」
「おはようございます。遠路はるばるご苦労さまでした」
 記憶に馴染んだ安煙草の香と、大きなカバンを軽々担ぐ影、裏のない笑顔が目に入る。その瞬間、榊原の胸に、何かが込み上げた。
「磐佐先輩! あと……そっちは……後藤だっけ?」
「はいっ。榊原さん、覚えててくれたんですか!」
「あれ、お前ら一度会っただけだろ? スゴイな、俺ならいっぺん会っただけじゃ、多分忘れてる」
「あはは……」
 磐佐からカバンを受け取りながら、後藤が苦笑を浮かべる。空いた磐佐の大きな手が伸びて、ぽんぽんと榊原の頭を軽く撫でた。
 榊原にとって磐佐は、唯一芯から慕う相手だった。敬愛するのに、これといった理由など必要ない。ただ好きである事実に、細かい理屈など付けようもないのだ。ただ好きで、とにかく好きだった。
 その相手との邂逅は、榊原の中にある反発的な面を、一瞬でことごとく取り去った。湧き上がるままに顔をつくれば、みっともないほどに崩れてしまう。咄嗟に、欠伸を殺す振りをして、取り繕うように顔を少しだけ背けた。
「ふぁあ……。で……先輩もソッチも、朝っぱらから俺を迎えに?」
「はい。夜行列車でお疲れでしょうし」
「お前と会うのは久しぶりだしな。朝飯でも食いに行けるかと思ってさ」
 そう言いながら、磐佐が駅の時計を見上げる。まだ、短針が一番下を回ったばかりだ。
 大きく伸びをし、磐佐が大股に歩きだした。が、すぐに足を止め、駅前の地図に目を止めた。
「いい定食を食わせてくれる店があるんだが……駅ってあんまり使わないんだよなぁ……ここはどこだ?」
 小さく呟く声が聞こえ、視線が道路を追っているのが、後ろからでも分かる。
 榊原がちらりと後藤を振り返ると、後藤は体に余るカバンを抱えて、小首を傾げてにこりと笑った。あれではカバンを持っているというより、それについているマスコットだ。前に会ったときも思ったが、細いというより、身体の作りが薄いのだ。
「相変わらずヒョロヒョロなんだなー、鍛えるんじゃなかったのかよ」
 にやりと笑って軽く肩を小突くと、後藤の身体が危なっかしげに傾ぎ、ふらふらと数歩よろめいた。
「わわ、ととっ……だ、大丈夫ですよ。これでも、少しは力が付いたんです」
 何とか体勢を立て直し、後藤が笑って荷物を持ち直した。「そのカバン、重要書類が入ってるんだからな。なんかあったらお前の責任だぞ」と言うと、その表情が引き締まり、カバンを持つ手に力が入る。ついでに「あー……ソレ自体も高かったなー」と顎をしゃくって呟くと、身体に緊張が走ったのが、容易に見て取れた。
 ……面白い。言った言葉がここまで顕著に響く人間を、榊原はこれまで見たことがない。馬鹿正直で、糞真面目で、なぜだかどうしても憎めない。
「傷なんかつけんなよ」
 にやにや笑いながら言い足して、緊張した顔がこっくり頷くのを見ていると、少し離れたところから磐佐が声を掛けた。
「どうした? やっぱりその荷物、ゴッティには重いだろ」
 そう言いながら、磐佐が大股に二人へ近付いた。そのまま手を伸ばし、軽々とカバンを取り上げる。それを見て、榊原は慌てて手を伸ばした。
「せ、先輩に持たせるくらいなら、自分で持ちます!」
「榊原さんにお持たせするくらいなら、自分が持ちますっ」
 榊原の言葉に被せるように、後藤が慌てて声を上げた。朝の駅のホームで、磐佐の腕に榊原が取り付き、その榊原の腕に後藤が縋りついた。あっというまに、軍服姿三人の数珠繋ぎが出来上がる。
「でもさぁ、考えてみろ。この中で一番体力あるのは、明らかに俺じゃねぇか」
「階級も一番上じゃないですか、それなのに荷物持ちなんてさせられませんっ」
 鞄の取っ手に手を掛けながら、後藤が悲鳴に近い声を上げる。一方榊原は、この堂々めぐりに早々に見切りをつけた。これではいつまでたっても、ここから動けない。
「……お前、片方持てよ」
 おもむろに手を伸ばすと、ふた把の片方を握り、榊原は低い声で後藤に促した。
「えっ?」
「ホラそっち。とっとと持てよ」
 再び低く告げると、一瞬きょとんとした顔を見せた後藤が、慌てたように柄の片方を握った。榊原と後藤の間で、カバンがぶらりと宙に揺れる。
「あれ? 俺は?」
「先輩に荷物持ちなんて、絶対させられませんからね」
 自信を持って言い切ると、隣で後藤も、首を大きく縦に振って頷いた。
「そ、そうですよ! それより艦長は、道案内をお願いします!」
「……じゃぁ、店を出てから艦までは、俺の番だからな」
 それだけ強く言いきって、磐佐がくるりと背を向ける。その背中にちらりと目をやって、一度後藤に視線を戻すと、なぜか一瞬目が合った。
(艦長にだけは、カバンを渡さないようにしましょうね)
(当たり前だろ)
 囁き声に、口の動きだけで返事を返した。磐佐がいなければ、この自分が荷物持ちなどするものか。
 朝日のなかを歩きだした榊原の歩調は、これまでになく、軽いものになっている。


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