揺 籃 「俺、明後日から泊り奉公に行くよ」 安吉の言葉に、両親は、一瞬目を見開いた。そして寸の間、顔を見合わせる。そして暫くの沈黙の後、父親の佐平がぷっと吹き出した。 「そりゃァいいや。安坊、どこに奉公に行く気なんだい」 「このご時勢に安坊みたいなのを引き取ってくれるなんて、よっぽどの大店なんだろうねぇ」 「日本橋の辺りじゃないかい、その店は? 通町の近くなら結構な大店が並んでいるだろう」 母親のお仁がくすくす笑いを堪えてそう言えば、兄の喜助も、ニヤニヤ笑いを隠そうともせずに箸をおいて問うてくる。しかしその手の中の茶碗には、すでに飯なぞ残っていない。御菜代わりの青菜の漬物が、僅かに椀の底に残っているだけである。 そもそも安吉達の住む長屋は、みな大した財は持っていない。宵越しの金を持つのは江戸っ子の名折れというが、年に数回も規模の大きな火事の起きる江戸では、持たないのではなく持てないと言うのが本当の所なのだろう。だから誰しも、現在の享楽に身を投じようとする。お江戸で人形芝居や行楽がはやるのも、偏にそういった世情が関係しているのかもしれない。しかしそんな中でもなお、皆、一生懸命一日一日を生きている。 安吉の父親である佐平は、そんな世情の中で長屋の片隅から身を起こした、旬野菜や茸の棒手振であった。その父もそのまた父も佐平と同じように金魚やらなにやら一代限りの棒手振をしていたとかで、その血を連綿と受け継いでいる安吉にも、もちろん跡取りである喜助にも商人の血が流れている。親の職業は基本的に子供が継がなければならないのだが、この家族は天秤棒一本を子々孫々伝えている。 それだから、いきなり安吉が言い出した奉公という言葉に、三人は寸の間言葉を失ったのだ。 しかし、安吉の言葉を笑い飛ばす家族の前で、安吉はしっかりと正座をしたままだった。茶碗と箸をおいて、拳をしっかり握り締めて、じっと己の膝を睨み付けている。 気の済むまで笑い漸く安吉の様子がおかしい事に気付いた佐平が、困ったように眉を顰めた。 「……おい安坊、まさかお前ぇ、本気か?」 「本気にきまってら。俺が何でこんな空事言わなけりゃならねぇんだよ」 そう言って、安吉が足を崩す。にやりと笑って、安吉は殻になった茶碗に急須の茶を注いだ。 「もう奉公先も決まってンだ。多分おっとうたちの想像してるお店よりまだデカい。通町の京橋近く、生駒屋ってお店だよ」 「生駒屋だぁ?」 安吉の言葉に、三人の声が重なった。そして今度こそ、五月蝿いほどの高笑いが長屋の六畳間を包み込む。 「生駒屋ってあんた、日本橋でも一、二の大店じゃないかえ」 「そんな店があんたみたいな木偶の坊を雇ってくれるわけがないだろう」 「大体何でそんな遠いお店をお前が知ってなきゃなんないんだい」 余人が聞けば至極尤もな兄の言葉を聴いて、安吉はむっとしたように目くじらを立てた。 「なんだい、俺が岡っ引きの親分に紹介してもらっちゃそんなに悪いのか」 安吉と喜助の親である佐平は、この界隈を縄張りにしている岡っ引きの親分と幼い頃から仲がよい。もっと言えば、棒手振の職のお陰で、佐平はかなり顔が利く。日々の野菜を買い求めない者はいないし、旬の野菜ともなれば長屋でもお店でも需要は腐るほどある。 安さが売りの佐平は、見た目の暮らしこそ楽ではないが、この辺りでは名を知られた人物なのだ。 しかしその息子だからと言って、何故急に安吉が日本橋の、しかも大店ばかりがあつまる通町へ奉公に行くなぞと言い出したのか。 どうせ人が多い街中の、喧騒が憧れなのだろうと佐平は苦笑いした。ゆっくりと立ち上がって、不貞腐れたようにごろりと横になる安吉の隣に、腰を下ろす。佐平は体が大きい方ではないが、肩幅が広いためか、胡坐をかくとどっしりとした構えになるのが自慢であった。 「いいか安坊、奉公ってのは大変なもんだ。お前の叔父貴も奉公してるが、一度たりとて帰ってきて愚痴を言わない日があったか? 人の多い通りは、確かに初めは楽しいかも知れねぇ、しかしその分だけ苦労もあるんだ。悪いことは言わねぇよ、憧れは憧れのままにしとけ」 「憧れじゃねぇよ。そりゃ人通りの多い所に少しは憬れた時期もあったけどさ、奉公に行っちゃそんなもん、一つ一つ回ってみるわけにもいかねぇだろう? だけどさ、俺は決めたんだ」 安吉の言葉に、それまで黙って話を聞いていたお仁が突如口を開いた。 「……まさかアンタ、自分はおとっつぁんの職を継げないからってそんなこと言い出したんじゃなかろうね」 「そうなのかい? だったら心配は無用だよ。棒手振なら二人だってできるし、その方がどっちも楽じゃないか。天秤棒なんて、俺はどんなもんだっていいんだから、お前さえ拘るならおとっつぁんの天秤棒はお前が継げばいい」 お仁の言葉に、兄の喜助も言い募る。意外に本気らしいと見て取って、二人は、安吉を止めようとし始めたのだ。しかし当の安吉は、二人にどんなに言葉を重ねられようと、頑として首を縦に振ろうとはしない。 「喜助兄やおっかさんの言ってることだってわかってるさ。でも、基本的に職は長子が継ぐもんだ。そこに俺は何の未練もないし、今のところ稼ぎもない俺がいなくなりゃ、喜助兄だって一日のお飯が増えるんだよ。結構なことじゃないか」 二人の言葉に一つ一つ、じっくりと反論を返していく。 安吉の決意を感じて、佐平とお仁、そして喜助は顔を見合わせた。 とにかく安吉を止めようと、佐平はその夜の内に、長屋の突き当たりに住んでいる爺を訪ねた。赤ん坊のころから世話になっている爺の説得なら、安吉も聞き入れるに違いない。 佐平の話を聞いて、爺は濁酒の入った猪口から、鋭い知性の光が灯る目を上げた。 「佐平坊、お前、そんなに安坊が心配か」 「当たり前じゃねぇですかい。それより佐平坊はやめてくれませんか、全身が痒くていけねぇやい」 「ふん、ワシにしてみりゃ佐平坊も安坊もまだまだひよっこなんだよ」 そう言って、爺が酒を煽る。困り果てて頭を掻く佐平にも猪口を差し出しながら、爺はじっと、相手の目を見つめた。 「……本当に、安坊が心配なのかい」 「当たり前ですよ」 応えながら、佐平は猪口を口に運ぶ。酒を飲みなれた舌にも、僅かに苦い。喉の辺りが焼け付くようで、体に酔いが回っていくのを感じた。酔ったくらいで饒舌になるので、目の前に坊扱いされるのだ。しかしそうと判っていても、滑り出した舌は止めようもない。 「……いや、それだけじゃねぇやな」 「ほぅ?」 「俺は多分、安坊がいなくなるのが惜しいんだ。喜助はもう手伝ってくれてるが、安坊はこれからだ。そんな折に大事な働き手を、手放したくないのかも知れねぇ」 「それ、本音が出てきよった」 そう言いながら、爺が笑って猪口に酒を注ぎ足した。それを一息に空ける。やはり苦い。 「……それにな、俺は心配でしょうがねぇんですよ」 「何を言っとる。安坊はもう立派に育っとるわ」 「そりゃ判ってますよ。しかし、俺の手を離れれば、何もかもあいつが一人でこなしていかなくちゃいけなくなる。それにあいつが耐えられるか……俺だって親父だ。あいつのことは誰より知ってる。あれが耐えられると、思えねぇんだよ」 そういって、佐平は天井を見上げた。本当は、こんなことを吐き出しに来たのではないのだ。しかし舌の方は、気持ちが良いまでに滑っている。先の濁酒が潤滑油であったかのようだった。 しかし、そこまで不安を吐露した佐平に、爺はにやりと笑った。 「そうさな、それは親父の意見だ。しかし世の親父は、大抵間違っとる」 「はぁ?」 「安坊のことを一番よく知っとるのは、お前じゃない。安坊自身だ。その安坊が手前ェで決めたんだ。何も臥煙になりたいなんて言い出したわけじゃなし、命の危険なんてこともないだろうさ。お前も親父なら……」 そこで言葉を切って、爺は己の猪口に酒を満たし、一息で飲んだ。そして佐平の猪口にも酒を満たしてくる。 爺が次に何を言いたいのか察して、佐平も照れ笑いを浮かべた。 「それもそうさな、俺がこんなことくらいで慌ててちゃ話にならねぇ。肝っ玉の佐平の名が泣くぜ」 そう言って、満たされた猪口を一息に開ける。苦く感じないほどに、酔いが回ったのだろうか。……それとも。 「ありがとよ」 「なァに、いいってことよ」 後手に手を振る爺に送られて、長屋を出た。 見上げた夜空には、満天の星が輝いている。思えば星を眺めたことなぞ、数年ぶりであった。幼い頃は、火の見櫓に登ればあの星にも手が届くと思っていたが。 「……いつの間にか、手の届かねぇ処に行っちまってよ」 呟きながら見上げた星空は、大層綺麗だった。 例えどんなに騒ごうと、どんなにうろたえようとも、日は過ぎる。 安吉が旅立つ朝は、存外直ぐにやってきた。といっても、場所はお江戸の内。会おうと思えば会える距離ではあるし、その気になれば一日で往復できる場所だ。しかし、今日この日から、安吉は『大店生駒屋の奉公人』になる。江戸の朱引きに限りなく近い場所に暮らしている家族とは、次に会えるのは薮入りだ。 湿っぽくなるのは嫌だという安吉の言葉で、長屋の面々も置きだしていないほどの早朝のうちに、生駒屋に紹介した親分が安吉を迎えに来ることになっている。 「風邪を引かないように、気をつけるんだよ」 「辛くなったら、帰ってきてもいいんだからな」 優しい母親の言葉に、喜助がからかうように言葉を重ねる。しかし、その瞳はわずかに揺らぎが見え隠れする。 今にも引き止めそうな家族を振り切るかのように、安吉は、手に持った僅かばかりの荷を軽く一振りして見せた。 「んなわけあるかい。……じゃぁ、俺はそろそろ行くよ。もう直ぐ、親分が迎えに来ちまうからな」 そう言って、安吉はくるりと踵を返した。 と、その後姿に、低い声が掛けられた。 「……安吉」 呼びかけられても、安吉は振り返らなかった。しかし聞いてはいるのだろう、僅かにその肩が、ぴくりと揺れる。それに気づいているのかいないのか、声は、ただ淡々と早朝の通りに響いた。 「……いいか、絶対に、途中で投げ出すんじゃねぇぞ」 「……」 「お前が自分で決めた道だ。何があろうとも、家族に縋りに来るんじゃねぇ」 「……」 「今日からお前は、この家の次男じゃねぇぞ。いいか、お前は生駒屋の丁稚だ。他に名なんかねぇんだ」 「……」 静かな声が、朝霧に吸い込まれていく。一瞬お仁の肩が揺らいだが、佐平は淡々と言葉を続ける。 「お前の家族は、生駒屋の皆さんだ」 「……わかってらぁ」 蚊の鳴くような声で、安吉がいらえた。 それを聞いて、佐平が大きく頷く。そして、長屋の面々を起こすかというような大声で、突如叫んだ。 「だがなぁ、お前はこの、佐平の息子だ! それを忘れんな、肝に銘じとけ!」 「当然よ!」 佐平の声に負けないほどの大きな声で叫び返すと、安吉は、朝霧の中を駆け出した。周囲はだんだんと、朝日に包まれていく。 お仁がそっと、袂で目元をぬぐう。喜助が、唇をかみ締める。 そんな二人の後ろで、佐平は、にやりと一人大きく笑った。 「あんなでかい声が出せるんだ、棒手振を諦めちまうのは惜しかったな」 そして影は、ゆっくりと長屋に戻った。 いかなことがあろうとも、何事も無かったかのように商売を、そしていつもの日常を再開するのが、本当の商人だ。 その血はきっと、安吉の身にも流れているに違いない。 戻る |