遠い日



 雲に手がとどきそうな、小高い丘。
 そのうえの、小さな喫茶店。

 緑に囲まれた木の階段を、ことこととのぼる。
 するとラベンダーの香りに包まれて、青い海が見渡せる。
 小さな扉を押しあけると、ふわっと、やわらかいコーヒーの香りに包まれた。
「やぁ、いらっしゃい」
 テントみたいな布張りの屋根に、太陽の光が白く光って、少しまぶしい。
 席は、ほんの5つだけ。
 小ぢんまりとしたカウンターの向こうには、優しい頬笑みを浮かべたマスターが立っている。
「お嬢さん、また来てくださったんですね」
「うん、えへへ。カフェオレ、ください」
「はいはい、少し待っててくださいね」
 しわをきざんだ大きな手が、ポットを火にかけた。
 その大きな手はあったかくて、たまにはギターを弾いたりもする。
「ここは、気持ちがいいね」
「ありがとうございます」
 カウンター席に腰かけた。ことことと、やわらかな音がする。風が、ふわふわと動いている。
 あたりを見回して、ふと目に付いた、写真立てに目をやった。
 男の人が、二人。
「……これ、マスター?」
「ええ。若いころですよ」
 渡してくれた写真を、両手で受け取った。
 写真を手にとって、じっと眺めてみたのは、初めてだった。
 二人とも制服姿。かたい顔をしている若い男の人は、確かにマスターだ。
 となりにもう一人、まるでいまのマスターみたいな柔らかい笑顔で、男の人が座っていた。
「……この人、誰?」
 指示してたずねると、砂糖のポットを出していたマスターは、小さく微笑んだ。
「……私の、大切な人ですよ」
「お兄さんとか、お友達?」
「みたいなもの、ですね」
 写真を覗き込んだマスターから、微かにコーヒー豆の香りがした。
「……いま、この人は?」
 聞いていいのかわからなかった。
 けれど、マスターの笑顔が優しかったから、そっとたずねてみた。
 答えにくかったかもしれない、その問いかけに、マスターはにっこり笑った。
 そしてカップを、ことりと私の前に置いた。
「亡くなりました、ずいぶん前に」
「ずいぶん……?」
「えぇ。その写真から、しばらくもしないうちに」
「あの、……ごめん、なさい……」
 悪いことを聞いちゃったかな、と、カップを両手で持った。
 入れてくれたカフェオレを、そっとすする。あんまり苦くなくて、懐かしいような味がした。
「いいんですよ、昔の話をするのは楽しいんですから。……ついでに少しだけ、いいですか?」
 ひとつ、頷く。
 マスターは、小さなクッキーの乗ったお皿をだしてくれてから、自分のカップにコーヒーをそそいだ。
 マスターの横顔は懐かしそうで、微笑みのなかに、悲しさや寂しさはぜんぜん見つからない。
「……私は、その人と、さよならも言えませんでした。最期に、会ってもないんですよ」
 マスターがカウンターをまわって、私の二つとなりに座る。だから私はちょっと迷ってから、二人の間に写真を置いてみた。
 やっぱりマスターの目は、写真のなかの知らない男の人みたいに、優しい。
 ……――似てるな、と思った。
「だから、まだ探せばいるような気がして、仕方がないんです」
「……ずっと前にいなくなったのに?」
「えぇ。おかしいでしょう」
 マスターがふふふと笑うけど、私は笑わなかった。代わりにクッキーを口にいれると、手作りの味がした。
「ここにいれば、いつかこの人が帰ってくるんじゃないかと思って」
「……うん」
「待ってるんですね、私は。この人を」
 ひとりごとみたいに呟いて、マスターの指が、そっと写真をなでた。マスターの大事な人が、写真のなかで笑っている。
 私はちらりと、マスターの顔を見た。
(似てる)
 マスターがさよならを言えなかった男の人と、いまのマスターは、おんなじ顔をしていた。
 いま、マスターはその人と、一緒にいるんだ。

「……待ってるの?」
「……えぇ」
 頷いた。
 けれどやっぱり、マスターは、知ってるような気がした。




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