つながるもの

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 火薬庫に足を踏み入れた当直将校が、煙草の消し忘れを発見した。
 それは小指ほどもないくらいの、小さな塊だった。ほんの一つまみの灰と、紙と、そして煙草の葉の塊にすぎないものだ。人気のない場所で酒や煙草を呑むことは、珍しいことではない。
 軍紀の乱れを推奨するのではないが、五月蠅いことは言わない艦長である。だからこそ当直将校は、通り掛かった彼に、何気なくそのことを報告したのだ。別段ことを大きくする必要もないだろうと、浅慮をもっての行動だった。
「――式弾火薬庫に、このようなものが」



 翌朝、いつもどおり体操を終えた乗員たちが持ち場へ戻ろうとしたとき、突如一人がストップを掛けた。
「すまん。ちょっと待ってくれ」
 朝日に朗々と響く大音声でありながら、しかし怒鳴り散らしたわけではない。言葉とともに片手をゆっくりと挙げたのは、それまで黙っていた艦長である。
 訓示すら短時間最小限で、難しいことは決して言わない。そんな彼が敢えて発言の意思を見せるなど、これまで一度たりとなかったことだった。異例の事態に皆は押し黙って動きを止め、下士官だけでなく、そこにいた誰もが目を見開いた。
「おい、どうした?」
 怪訝な顔をした相嶋が、素早く耳打ちした。同期の相嶋ですら何も聞いていないのを悟り、その場の幾人かが、様様に不安の色を滲ませる。
 しかし磐佐は、振り返りもしなかった。
 大股に歩いていくと、皆の前に立って、気まずそうに視線を微かに下へ向けた。
「あー……」
 片手を腰に当て、空いた手でがりがりと頭を掻きむしる。その眼には、どこか暗い色が漂っている。
 見ているうちにも唇を噛みしめては湿らせ、胸の中にわだかまったものを言葉にするのに、かなりの努力を要しているらしい。
「その、な、隠れて酒や煙草を呑むのは旨いし、それは俺も知ってる」
 普段の彼らしくない様子に、誰もが緊張し、注目した。先程の大音声とは比べ物にならない声音であったが、その言葉は、場の隅々まで浸透した。全員の耳が、眼が、手が、足が、そして背中までもが彼の言葉にすべての神経を注ぎ、磐佐の吐息一つが、鉄の装甲にまで沁み亘った。
 何度も躊躇い、しばらく黙ったのち、やがて決心したように磐佐は顔を上げた。
「……ただ一つ、火薬庫でだけは、やってくれるな」
 それだけを真っ直ぐに告げて、磐佐は再び気まずそうに、元の場所へ戻った。
 しかし今度は、相嶋は何も囁かず、誰も微動だにしなかった。規則正しく立ち居並んだ全員が、それぞれに、磐佐の横顔を見詰めていた。


 本来の彼なら、そんなことは、絶対に言わない。あえてそれを口にし、全員に知らしめたときの表情には、はっきりと彼の抱える苦しさが滲んでいた。
 火薬庫で煙草なぞ呑めば、爆沈という大惨事に直結する。確かに、磐佐の言葉に、間違った点は一つもない。
 しかしあの様子は、尋常ではなかった。
 わざわざ不祥事を知らしめ、あれほどに動揺を見せる彼を、周囲は初めて見たのだ。「とにかく何故いきなりあんなことを言い出したのか、それだけでも聞いておこう」と幕僚たちは、当然のように意見を一致させた。
 決まれば早い。すぐにも彼のところへ向かおうと、一人が立ち上がりかけた。
 しかしその行く先を、相嶋一人が、暗い眼で立ち塞いだ。

「あいつにその話は、させないでやってくれませんか」
 それまで一人で物思いに沈んでいた相嶋の言葉に、全員がそれぞれ顔を見合わせた。
 磐佐とは同期にあたる、その相嶋の言葉である。重い口調からも『何か』があることは、簡単に察せられた。
「どういうことだ」
 掠れた声の問いが漏れると、「俺が言っていいことなのか、分からないんですが……」そう呟き、相嶋が、光のない目を伏せた。
「そうですね……あいつに説明させたくないんで、俺からお伝えしておきます。……皆さん、数年前の戦艦爆沈事故を、覚えておいでですか」
 言われてそれぞれが、彼方の記憶を手繰った。すぐに次々と、記憶を手元へ手繰り寄せた者たちが、顔を上げる。
 そう簡単に風化させることはできない、まれに見る大惨事であった。どんなに記憶に不安がある者でも、完全に忘れ去ることなど、出来るはずもない。
「確か、火薬庫での火の不始末が原因だったな」と、一人が呟いた。
「はい。そのとき、事故の査問委員会に、あいつも加わってまして」
 相嶋が続けた言葉に、ざわりと、辺りが少しだけざわめいた。「……あぁ」と、何かを思い出したのか、溜め息のような音が漏れた。
「あいつは自分で、何度も何度も潜っては沈んだ艦の様子を見て、被害破損状況を調べたんだそうです。……その他に、艦内から死体を引き揚げて、遺骨を持って、遺族に説明して回る役も引き受けたみたいで」
 相嶋がちらりと、視線を部屋の扉へ向けた。
 そこを出てしばらく行ったところには艦長室があり、そこには磐佐がいる。
「……あいつは多分、怖いんだと思います」
 そう言って、相嶋は再び目を伏せた。

 しばらく、誰も何も言わなかった。何人かは窓の外へ目をやり、また何人かは閉まった扉の向こうを見ていた。
 やがて沈黙を破るように、一人が口を開いた。
「そうだな、事情なんざァどうでもいいか」
 相嶋が、弾かれるように顔を上げた。皆の視線が声の主へ集まり、やがてそれぞれの顔から、緊張の色が消えた。
「それもそうですね、我々がすべきは鍵の管理の強化です」
 また一人が応え、皆が次々にそれに頷く。理由も、その深意も、今は必要ない。ただ、その言葉に肯いて、より注意を強化すればいいのだと。

 彼等の言葉を聞いて、相嶋が微かに表情を緩ませ、再び扉へ目を遣った。
 こんなことを勝手に伝えていいのかは、相嶋には分からなかった。要するに自己満足なのかもしれないし、それでなくとも自分の言葉にどれだけの意味があるのか、それすら分からないのが本当のところだ。
 しかし下士官たちにも慕われる艦長の言葉なら、きっとそれだけで、全体にとって大きな意味がある。
 深い詮索を封じても、ただ彼の言葉が守られる。そのことを願って、相嶋は微かに、息を吐いていた。


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