ここ数日の懸案が片付いたと、相嶋が晴れやかな表情で、ワインの瓶を抱えて帰った。 下宿に洋酒。その不釣り合いさは、細かなことを気にしない磐佐にも分かる。 「グラスなんかないぞ」 一言声をかけてはみた。が、相嶋はどうでもいいと、ひらひら手を振って笑った。 ワインといえば、透明なグラスに注いだ透明感まで楽しむものだと思っていた。しかも相手は、高級なワインを口にし慣れているはずの彼である。そうした(磐佐にしてみれば妙な)作法を、知らないはずがない。 こだわりはないのかと磐佐が重ねて尋ねると、分厚く野暮ったい湯のみを二つ取り出して、相嶋がくつりと口角を持ち上げた。 「俺なりに考えた上での楽しみ方だ。つきあえよ」 それは以前、磐佐が相嶋に吐いた台詞だ。相手の顔に浮かんだ笑みが、悪戯の色を帯びている。 「それでもワイン好きって言えるのか」 差し出された湯のみを受け取る。相嶋が気軽にコルクの栓を抜き、「今日中に空けるぞ」という。その言葉を聞いて、磐佐も浴衣の裾をさばき座り直した。 桃色掛かった透明な液体を湯のみに注ぎ、大きく一口煽る。 慣れない果実の酸味を打ち消すように、さらに一口煽ると、二人の口から同時にため息のような声が漏れた。 「……はー」 「んで、何が終わったんだ。よほど時間を食われてたみたいだな」 一息吸って、ずっと気になっていたことを尋ねた。酸味が舌に濃く広がる。 「あぁ、戦没者名簿の整理だよ」 そう言った相嶋の指が、分厚さを示すように動いた。 「いろいろ有耶無耶になっててさ。確認に骨が折れた」 そう呟いて、相嶋の手が酒瓶へ伸びる。磐佐が制して瓶を取ると、彼は黙って酌を受けた。 「今年はいろいろあったからな」 「戦死なんかな、全部今年の殉職に入れられてた。酷いもんだよな」 「二年分か?」 「そう、二年分。終戦日が、命日」 再び湯のみを傾けて、相嶋が小さく呟く。 「戦争が終われば、職業軍人は皆命日だよ」 その指には立派なたこがあり、持ち上げる腕は少し震えていた。気付かないふりをして、磐佐も湯のみを傾ける。 やがてふと、相嶋が湯のみをおいた。 「なぁ、お前は勇退したら、そのあと何やりたい?」 「退職、ね……」 「そう、退職」 突然の言葉に、磐佐がちらりと視線を送る。 「そうだな……海はもういいや。山、まわってみるかな」 「山?」 磐佐の言葉に、相嶋が目を瞬いた。 大したことを言っているんじゃないだろう。手元の湯のみを満たしながらつぶやくと、相嶋も「そうだよな」とすぐに視線を戻した。 「でも、唐突だな、山なんて」 「そうでもないぞ。地元は田舎だしさ、山を見るのは好きなんだ」 そう言いながら目を伏せると、瞼の裏に容易に深い緑が広がる。あと十数年もすれば海の青に見飽きて、この緑を見たくなるような気がしたのである。 もちろんそれまでに、海の青の中に身を沈める日がくるのかもしれない。それはそれで構わない。もしかの話だ。 「……じゃぁ、お前が死んだら、屍は山に草生(む)させて欲しいのか?」 「水漬かせてくれ、せめてもの矜持だ」 「ふぅん」 よく分からんなと相嶋がぼやく。 気にすんなと笑って、磐佐が杯を干した。 |