素晴らしい買い物



 その男には、財もあった。権力もあった。家族はなかったがそれに匹敵するほど親しい友達が沢山あり、大きな屋敷には何十人もの召使がいて、誰も敵わぬほどの豪奢な生活を送っていた。しかし彼には一つ、どうすることもできない事があった。彼は掛かり付けの医師から重病の診断を下され、余命5年の命だと、宣告されていたのだ。
「畜生、社会に必要とされて、皆の期待に答えながら、俺はこの一生を何をして過ごしてきたのだ。何一つとして自分のためになる事はしていないじゃないか」
 それが、彼の口癖であった。
 学生の頃に良い成績を取り続けたのは、期待に満ちた眼差しを浴びせてくる両親と教師のため。大きな企業に就職したのは大学の名を売る事に必死だった教授陣のためであり、大きな役職に付いたのは彼を必要としていた社長のためだった。
 しかし、自らの娯楽や容姿の為には一銭も投じてこなかった彼には、いざこうして残りの命が5年しかないと申し渡されても、はっきりとした実感がわかない。自分がなければ、失うものもない。
 そうして一体何をすればいいのか今一判らず、途方に暮れているうちに1年たち、2年たち、3年たった。しかしそれでも、自分がすべき事柄が見つけられない。
 ある日男は絶望して、暗い路地裏を歩いていた。会社と自宅を送迎する専用車にも今日は暇を与え、先の短い「自分」のために何が出来るかを、落ち着いて考えたかったのだ。
 しかし、今までなら欲しい答えは直ぐに出せた自分の頭は、事この問題に関しては、何の解決策も見出してはくれなかった。
 やがて男はやけになり、薄暗いバーにふらりと入った。
「……ウイスキーを頼む。酔いたい気分なんでね」
 バーテンダーにそう言うと、グラスを拭いていた老紳士は頷き、一杯の琥珀色の液体を出した。ぐいっとそれを喉に流し込む。それは喉を焼くように体に広がり、男の頭をぼんやりさせた。その感覚の心地好さに、男は何度も何度もその酒を呷った。金なら心配はない。それだけは、有り余っているのだ。
 やがて、バーに入って何時間経ったのか…本当は数分だったのか、実は数日経っていたのか…、隣に一人の紳士がやってきた。
「…どうしました、浮かない顔をして」
「いや何、私の人生は一体なんだったのかと思っていただけですよ」
「あぁそうでしたか。しかし今悲観的になってはいけません。人間、生きていればいつか良い事が着ますよ」
 紳士の言葉に、男ははじけるように笑った。
「いや失礼しました。しかしこの私に、生きていれば…とはね、と思いまして」
「? どういうことですか?」
 酔いが気を大きくしていたのだろう、男は促されるままに、今までの経緯を話した。
 自分はこれまで目標なく生きてきたこと、何のために生きているのか分からなくなったこと、余命あと2年だというのに何をすればいいのか未だに判らないということ。
「で、どうしようもなくなっての自棄酒ってわけですよ」
 男の言葉に、紳士は煙草に火をつけながら尋ねた。
「いやしかし、生きている事に絶望したなら、死に対して希望を持てばいいではありませんか。何故、それをしないのです?」
「私もそれを考えた事はあったんですよ。しかし私は所詮、仮面を被ってフラリフラリと生きてきただけの人間らしい。死に対しては絶望しか抱けない一方で、今の目標といえば『生きる事』だけなのですから」
 男はそう言って、自嘲気味に笑った。だいぶ酔いが回っているのだろう。くらくらする頭を軽く抑える男を見遣って、紳士は今度は懐から携帯灰皿を取り出した。
「……それでは、あと何年生きれば貴方の目標は達成できるのです?」
「…………まぁ、今の寿命の倍……4年も生きれば満足です。」
「それでは貴方に提案があるんですがね。
 実は私、ある研究所で時間の研究をしているんですよ。それでこの度とうとう、ある特定の個人に流れる時間だけを、倍にする技術を発明したんです。どうです? その……実験台になってくれるなら、もしかしたら4年生きられるかもしれないという希望を、貴方に売って差し上げる事が出来るんですが……」
 紳士の言葉に、男は驚愕で目を見開いた。これまで何度、自らの寿命を少しでも引き伸ばす事を夢見てきた事か。しかし病魔相手ではそれも出来ないと、諦めてた。
 それが出来るというのだ。
 しかも、自分が有り余らせている金を払いさえすれば、である。
「それは……本当ですか?」
「えぇ、まぁ。しかしこの実験は未完成です、もしも失敗したら……」
 どもりがちな紳士の言葉を、男は途中で遮った。
「そんな事は気にしません。実験に失敗はつきもの、それに私にはどちらにしろ、あと2年しか残されていないのです。その2年を伸ばす『希望』を、私は貴方から買い取るわけですから。どんなにお金が掛かっても悔いはありませんよ」
 男の意気込みに、紳士は暫くじぃっと男の目を覗き込んだ後大きく息をついた。
「……判りました。しかし値段は、そう安くはありません。それにこれはまだ実験途中ですから、死ぬまで私共の施設に入って頂く事になります。そこには窓もなければドアもない、外の世界と触れ合う事すら許されません。それでも……」
「構いません」
 男の言葉には、迷いがなかった。
 今のこの男の目標は、ただ、生きる事なのだ。一分でも一秒でも生き長らえる為なら、どんな犠牲も安いものであった。貯金はいくらでもある。
 男の言葉に、紳士は漸く頷いた。
「それでは、御引き受け致しましょう。……明日、この……名刺を渡しておきますから……ここに書かれた研究所に、お越し下さい」



 やがて、男がこの世を去る時が来た。死の直前、男は紳士を呼んで、ベッドの上でうっすらと笑った。
「……あんたを信じて良かった……2年と宣告された寿命が、本当に4年分、生きられたのだからな……本当にありがとう……」

 男が去った部屋のベッドに腰掛けて、紳士は暫く何かを考え込んでいた。
 そして暫くすると徐に壁掛け時計を外し、それを地面に叩きつけて壊し、ゆっくりと髪を掻き上げて嗤った。
「……単純なものだ。あの男は、2年きっかりしか生きてはいないと言うのに。時計の進みを早くして、生活リズムの一日を12時間に短縮させただけ。それなのに時計の進むのが早いのさえ、最期まで気づかなかったとは。そして時間に振り回され、4年間生きたと信じて笑顔で逝ったなんてな。まったく、愚かな男だ……」




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