侵食



「……ちょっと休むか」
 紅は、レポートを書いていた手を止め、コーヒーでも飲もうと机を立った。
 パソコンは故障してしまったため、レポート用紙をシャープペンシルで、ガリガリと彫り進めていた。転がったシャープペンシルが、ことりと小さな音を立てる。
 一人暮らしの部屋は、どこにいてもラジオの音が耳に入る。どこかの誰かのリクエストに合わせ流れ始めた曲に、さりげなくメロディーに歩調を合わせてみたりした。……阿呆らしくなって、数歩で止めた。ほんの二畳ほどの台所へ向かい、薬缶をコンロに掛けた。

 キチキチキチキチ……ボンッ

 低い音を立てて、コンロが青い火を吐き出す。
「いまどき湯から沸かすとか……レポートも手書きだしさぁ。何時代だよ……。……っ」
 思わず一人で呟いていたことに気付いて、慌てて口を押さえた。一人暮らしでは、独り言が多くなる。
 粉末コーヒーをカップの底に落としながら「まずいなぁ……」と呟いて、それがまた独り言であることに気付くと、口を軽く曲げてみた。何も変わらないことは、承知の上での行為だ。
 薬缶がコトコトと音を立てた。
 沸騰した湯をカップに注ぎ、ふぅふぅと冷ましながら部屋の中心へ戻る。小さなテーブルにカップを据えて、ベッドにもたれるように胡坐をかいた。ラジオを聞きながら、少し休むことにしたのだ。
 耳を澄ませると、同時にエンディング曲が大きくなった。
『Have a nice dream!』
 馴染みのDJの声が終わりを告げ、少しの間をおいて、番組が終了した。
「あちゃー……」
 思わず声を上げ、時計を見た。見上げた短針は、二時を回っている。一文字ずつレポートを手書きで記すのは、思った以上に時間がかかっていた。

 その時だった。
 ラジオから流れていたピーッという電子音が途切れ、独特のリズムが流れ始めた。

「あ……またあの曲だ」
 曲名は知らない。ただ、最近ラジオで、何かと耳にする曲だった。
 深夜のリクエスト番組、昼間のニュースの合間、トーク番組のBGMでも聞いた記憶がある。……いや、気のせいかもしれない。
 サビだけ口ずさむことができ、イントロの部分だけは何度も塗り替えられて記憶に深く刻み込まれている。何日もラジオを聞いて過ごせば、よくある現象だ。もしかしたらコンビニでも、聞いたことがあるのかもしれない。
「……もうコレでいいや」
 休憩の共には、悪くない。思えばじっくり聞いたことなど、一度もなかった。たまには最初から最後まで聞いてみようと、紅は耳をすませた。



「何だよコレ……」
 喉の奥から、思わず声が漏れた。
 何気なく聞く分には、普通の曲だった。ポピュラーソングとは少し違った様相の、特徴的なメロディラインである。とはいえ、聞いたことがないような、異常なものではけっしてない。どこか不思議な歌詞は、女性歌手の美しい声を着飾っている。
 しかし聞けば聞くほど、紅の心中は、ざわざわと不穏な波を湛えていた。
 普通の曲の筈だ。

 それなのに、不安になる。

 やめてほしい。
 止めて欲しい。
 しかしそう思う端から、なぜか曲に惹かれていく。

「……な、」
 頭の中を、なにかぞわぞわとしたものが、満ちているような気がした。
 ひどく落ち着かない。
 カーテンが少しだけ空いていることに気付き、思わず立ち上がって、勢いよく閉めた。今度はベッドの下の暗がりが目につき、足早にベッドの上に腰かけた。
 電気を消す気にはなれなかった。電気を消してしまえば、曲が全てを呑みこんでしまう気がしたのだ。ラジオを中心に進んでいく浸食を、部屋の灯りと、自分という存在が、ただ何とかして保っていた。
 所詮は歌でしかない。そのうちに曲は終わる。
 そう思いながらも、その時間が妙に長かった。恐怖を感じてから、いったいどれほど経ったのだろう。ひどく長い曲である気がしたが、もしかしたら、まだ一分も経っていないのかもしれなかった。それが証拠に、目の前のコーヒーは、まだかすかに湯気を立てていた。
 ……――寝てしまおう。
 耐えきれる気がしなかった。そう思い、紅は、勢いよく布団の中へ潜り込んだ。
 布団をかぶった瞬間だった。ベッドが、ギッと低く鳴った。
 明るい布団の向こうが、何かで浸されたような気がした。見張っていても意味はないと分かっていながら、目を離せば『何か』が覗きこむ気がして、紅は布団の隙間からじっと目を見開いていた。
 曲は、まだ終わりそうにない。





 曲は、まだまだ、終わりそうにない。




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