P C I V 「……へくしっ……」 ずび、と鼻水を啜り上げて、冷えた両手を擦り合わせた。コートの衿を掻き合わせ、マフラーをきつく巻きなおす。 親からの仕送りがあるとは言え、無駄遣いは禁物だ。 ストーブはもう少し寒くなってから使うことにしている。室内といえど、防寒対策は欠かすことができない。 奇跡的に大学に入学できた紅が、一人暮らしを始めて2年が経つ。 綺麗好きな性格からか、一人暮らしをしているとこうなるのか、室内は小奇麗にさっぱりと纏まっている。 テレビや新聞の類は大学の有効活用だ。食事は安い学食で取ることが多く、部屋の隅のキッチンはすっかり埃を被ってしまっている。 勿論、家電話なるものなど存在しない。 「携帯電話さえあれば何とかなる」というのがその主たる理由である。 家からの連絡手段を断って、好きなことを好きなだけやりたい……というのは両親には内密だ。 その部屋の中で、隅にポツネンと置かれたパソコンが異彩を放っていた。 小さな居城のなかで最もお金を掛けているもの、と言っても良いだろう。 インターネットの料金を惜しんでいては、本当に文明に遅れてしまうような気がして、これだけは月々のバイト代から支払っている。 ……というのは学友相手の言い訳である。実はパソコンそのものは中古品で、当初は買う事など予定していなかった。 ところが、たまたま訪れた中古品店の店主が 「生産台数も少ない、希少価値のあるパソコン」 などと甘言で誘い、しかも異様な安値で売られていたもので、つい購入してしまったのである。恐るべし給料日と言えようか。 そしてその使い道を考えた挙句に思いついたのが、インターネットだった。つまり正確に言えば、まずパソコンがあって、インターネットを使い始めたのである。 この予定外の大出費を後悔することはあるが、まぁ楽しんでいる時間の方が多いので、紅に取っては良い買い物をしたといえるだろう。 紅はその日もパソコンの前に座って、漫然とネットサーフィンを楽しんでいた。 「……さぶ……」 ぼそりと呟いて、指先に吐息を吹きかける。 長時間キーボードを叩きマウスを長時間動かしたりしていると、指先が冷える。 しかし動かさないわけにもいかず、こうして時々手をコートの上から羽織った毛布の中に入れて、暖めなければならない。 「……へぶしっ……」 腕を動かした瞬間に冷たい空気がコートの中に入り、鳥肌が立った。 思わずパソコンの画面に向かってくしゃみを撒き散らしてしまい、慌てて画面を拭き、再びマフラーを巻きなおす。 まだ帽子を被るほどに寒くはないが、次の寒波が来たら、厚手の靴下も必要になってくるだろう。 そう言えば、厚手の靴下は何処にしまったっけか……。 画像が重いのか、なかなか表示されないインデックスページを待ちながらそんなことを考えていた紅は、 ふとパソコンのウィンドウに目をやってぎょっと目を見開いた。 黒く光るウィンドウにはっきりと表示された文字は、ただのエラー表示ではなかった。 ウ ィ ル ス ダ ウ ン ロ ー ド 中 「じょっ、冗談じゃねぇっ!」 紅は慌てて、ウィンドウの左下に表示された『中断』の文字をクリックした。 すると画面が真っ暗になり、何事もなかったかのように、再起動の文字が浮かんだ。 それを見て、紅はほっと息を吐く。 全く、冗談ではない。 まさか自分がそういう事に関わる事になるとは思いもせず、ウィルスバスターのソフトをインストールしていなかったのは確かだ。 しかし先程のウェブページでウィルスに引っかかったのは、初めてなのである。 まさにこれこそ、青天の霹靂とでもいうべき事態……とにもかくにも、これからはそのサイトへは、足を運ぶまい。 ウィルスはまだダウンロードし終えていなかった筈だとパソコンを切りながら、 明日には叔父のパソコンメンテナンスショップへ持って行こうと、ひっそり決心した。 店の中に並べられた新品のパソコンに見入っていた紅は、肩を軽く叩かれて振り返った。 「紅、パソコン検査終ったぞー」 見れば正月に会ったばかりの叔父が、にやにやと笑っている。 肩越しに紅が見入っていたパソコンを見て、叔父はそのニヤニヤ笑いを一層深めた。 「どうだ紅、パソコン買い換える気はないか?」 「なんで甥に向かって商売始めてるんだ。それに買い換えるにしても『気』じゃなくて『金』がねぇよ」 「ないとは言わせねぇぞ。ったく、何のために毎月何万も貯蓄してんだ。今年もまだストーブさえ点けてねんだろ?」 「いんだよ、卒業旅行で海外に行くための資金なんだから」 軽口を叩きあいながら店の奥へ行くと、そこではあのパソコンが、しずかに主の迎えを待っていた。 心配そうな顔色がそのまま出ていたのだろう、叔父は机の上のパソコンをポンポンと叩いて笑った。 「とくに問題はないみたいだ。よかったな」 「あぁ」 叔父に言われるまでもない、ほっと安堵の息を吐く。 そうと判ればとっとと持って帰ろうとパソコンを抱え込んだ紅を、叔父はふと思い出したように引き止めた。 「あぁそうだ。お前、ウィルスバスターのソフト、まだ入れてなかったみたいだな」 「え? あー……」 「親戚からのサービスだ。とりあえず安いのを入れといたぞ。無料のもんよりゃいい働きをする」 叔父の言葉に、紅はほっとしたように笑った。 「さんきゅー」 「ま、出世払いの三倍返し、期待してるぞ」 「このインチキ商売師め」 そう言って再びパソコンを抱えなおした紅の手からそれを奪い取り、叔父はにやっと笑った。 「途中でどっかにぶっつけて壊されてもな。……送ってやるよ」 パソコンの接続をし終えて、紅はさっさとパソコンの電源を入れた。 時間がある限り、紅はこうしてパソコンの前に座っている。 そして気が向いた時にはブログに徒然の事を書き込んで満足し、電源を落とすのだ。 立ち上がったパソコンの画面を見ると、確かに叔父の言うとおり、特に異常は見られなかった。 何もないに越した事はないと、紅はインターネット接続のアイコンをクリックした。 おかしいな、と思い始めたのは、その次の日だった。 数少ない、同じパソコンを使っている人のブログに、「何かのウイルスをダウンロードしてしまった」という記事を見つけたのだ。 パソコンが一時的に使用不可になってしまったようで、記事によれば、そのままパソコンを買い換えてしまったという。 希少価値のあるパソコンとは言え、使えないのでは意味がない。 世界から、同じパソコンを使用している人が一人減った事に一抹の寂しさを覚えながら、紅はその日もコートの衿をかきあわせていた。 日本列島を寒波が襲ってくるのももう間もなくらしい。そう言えば最近、夜の冷え込みが一段と激しくなったようだ。 さらに次の日、同じパソコンを使っていた人が、先例と同じくパソコンを買い換えたことを知った。 しかも二件である。 ブログを持っている人が、インターネットを使用する人の何パーセントに当たるのかは、知る由もない。 とはいえその中で3件に同じ事が起きたとなると、これは徒事ではない。 そう考えた紅は、再び叔父の店を訪れた。 「あぁ、最近お前と同じ型のパソコンを持ってくるヤツが多いんだ。 つってもまだ2件だが、パソコンのパターンから考えりゃ、どうにも多すぎるんだよなぁ」 叔父の言葉を聞いて、紅は怪訝そうに眉を顰めながらコーヒーを啜った。 「あのパソコン限定で蔓延するウイルスでも、広がってんのかも知れんなぁ」 紅の怪訝そうな様子など意にも解さず、叔父は言葉を続ける。 「しっかしまぁ、それもお前が来た時だからなぁ……お前が何かまきちらしてるんじゃないのか?」 からかう様な口調を聞き流して、再び紅はコーヒーを啜る。 叔父の取り留めもない話を聞いているうちに、何か、問題の確信に近付いているのではないかという感覚がムズムズと体を襲い始めたのだ。 喉元まで出掛かっているその考えが、ちりちりと紅を妙に急かした。 しかし叔父にそんな紅の複雑な心情が伝わるはずもない。そもそも楽天的なのを唯一の武器に世間を渡っているような男なのだ。 紅の繊細さとかけ離れた野太い声で、叔父は話を続ける。 「それにしても変なウィルスなんだよなぁ。 HDが異常な熱を持って、動きが緩慢になり、たまに変な接続をし始める……が、それ以外に不調と思われる所はない」 「……」 「しかも数日放置しておきゃ、自然と元に戻るんだ」 「……」 「とりあえず事例調査からしないとな……ってわけでお前、パソコンの調子がおかしくなったときに、丁度していたことはねーのかよ?」 「………!」 叔父の一言に、紅は空になったコーヒーカップを机に叩きつけた。 そして、驚いて身を引く叔父に、珍しく窺うような視線を送って見せた。 「……なぁ、ウィルス感染って……『ウイルスを持ったパソコンが作ったサイトページに、アクセスしただけで感染する可能性がある』……って、マジ?」 「あ……あぁ。まぁ、モノによっちゃそうもなるわな……」 「わかった」 そう一言呟いて、紅は叔父の家を駆け出した。 勢いよく家のドアを閉め、紅は恐る恐るパソコンを立ち上げた。 暫く待つと微かな起動音がして、普段の画面が表示される。 それを確認して、紅はしばし深呼吸をして呼吸を整えた後、ウィンドウに向かって盛大にくしゃみを撒き散らした。 走って来たときにかいた汗が、そのまま冷えてひんやりとした感覚が全身を覆う。このままでいれば確実に風邪をひく。 そう、風邪を……―― 暫し、待つ。 すると、暫くの沈黙の後――まだインターネットにさえ繋いでいないというのに……―― ウ ィ ル ス ダ ウ ン ロ ー ド 中 まだインターネットにつないでもいないウィンドウに、例の文字が黒々とうかんだ。 「……ってことは、ウィルス源、俺なのか……?」 戻る |