抜け殻



 街道沿いから聞こえたいびきに、主人はパシンと自分のひたいを叩いた。
「……やると思ったんだ」
 空を仰いで嘆息すると、同時に両肩がガックリ落ちた。
 予想できたことではあったのだ。道端で寝ている小男は、主人の小間使いであった。酒が自分の原動力と豪語する酒好きで、そのくせあまり強くない。
『酒を飲んで、初めて働く気になるんです』
 ようするに酒を飲んで、ちょっと仕事をして、さらに酒を飲んで、酔いつぶれる。この繰り返しだった。他家ならば、すぐに首を切られても、なんら不思議なところはない。
 主人も以前からの気前の良さと、そして気安くなったための遠慮が邪魔をしなければ、首根っこをひっ捕まえて放り出してしまいたいところだ。
「もう大丈夫、首は切られない……そんな風に思ってるな」
 確かに主人には、もうこの小男の首を切ることは、容易ではなくなっている。
 しかし、かつては大学寮で物を教えていた人間だ。
「……こっちにも、考えがあるからな」
 そう言って、彼が取り出したるは、立派な朱塗りの鬼の面である。

 紐を固く結んで、主人は満足そうに身体を起こした。これで、容易には外れない。
「しっかり貼り付けたからな」
 使用人に頼んだ糊の買い出しが、まさか自分に真っ先に使われることになろうとは、さすがの小男も思ってはいないだろう。
 主人はくつくつと笑って、一人ひっそりと屋敷へ戻った。
 さて、この使用人は、どうするか?



 それから数時間、目覚めた使用人が、寝ぼけ眼でむくりと身体を起こした。
 いつのまにやら、辺りはすっかり暗くなっている。
「おっと、またやっちまった」
 すっかり酔いも冷めていた。使いの途中で眠りこけてしまったのだ。身体も少し冷えているようだ。
「あー……のどが渇いたなぁ」
 早く帰ろうなどと、この小男が思うはずもない。すでに、使いに出てから半日は立っている。いまさら帰ったところで、説教の時間が長くなるだけである。使いを頼んだことすら主人が忘れてくれるのを、のんびり待つ方が得策だ。
「そこに清水があったよなぁ」
 通いなれた道だ。どこに清水があり、どこで休めるか、それくらいならしっかり把握している。誰もいない街道を渡り、小男が水を飲もうと、清水に手を伸ばした。
 そして、ゆらりともしないその水鏡に映った姿を、その目でしっかりと見てしまったのだ。普段とは違う、自分の顔を。
「お、鬼?!」
 そこにいたのは、振りみだしたる髪も恐ろしい、大きな赤鬼の顔であった。
「おっ、おっ、鬼?!」
 男は大慌てにあわてて、何度も何度も水面を覗き込んだ。しかし、どれだけ見ても間違いない。水の底から自分を見つめているのは、人とは思えない、恐ろしい形相なのである。
「な……なんてこった、鬼に、鬼になっちまった」
 小さく呟いて、小男はもう一度水鏡を覗き込んだ。やはり鬼が、こちらをのぞき返している。

 ひとまず屋敷へ帰ることにした小男。
 道行く人のあわてようやくすくす笑いにも気付かず、まろぶように主人の前へと駆け寄った。
「た、大変だ、大変なんです」
「お前は誰だ」
「お、俺です! こんな見目になっちまったが、俺ですよぉ!」
 しかし主人は、鬼の顔におびえる様子もない。ふいと視線をよそへ向けて、耳なぞほじくっている。
「わしは、鬼を雇った覚えはないな」
「いや、俺は人間で、あんたに雇われて……」
「しかし鏡をよく見てみろ、鬼の顔をしておるではないか」
 その言葉に、少し頬を撫でてみる。やはり人間の肌とは思えない、冷たくて固い手触りだ。やっぱり自分は、鬼になってしまったのか。
 でも、だからといってあきらめるわけにはいかない。
「なら、今度は鬼として雇って下さいよ」
 そう言って、小男が再び平伏した。
「……断る」
 しかし主人は、素気無かった。キッパリ答えて、屋敷の奥へ戻ろうとしたのだ。
 小男は、あわててその足元に、すがりつこうと立ちあがった。その途端、酔いの残っていたものか、足元がぐらりとぐらついた。
 床全体がなりひびくような大きな音をたてて、小男がその場に転がった。

 あまりの音に、びっくりした主人が振りかえった。見ればそこには、むっくりと起き上がりつつある小男の姿。面が外れて、床に残っている。
「……おぉ、お前か」
 そろそろ十分に身にしみただろう。わざと声をかけてやると、小男がきょとんと顔をあげた。次に床へ目を落とし、鬼の面を見つけたようだ。小男が手を伸ばして、面をとり、しばらく面をじっと見て、次に主人を見上げた。
 許してやろう。
 そう言おうと思った。のだが、ときを同じくして、小男が口を開いた。

「……鬼の抜け殻を、土産に持って帰って参りました」


 ……どうやら反省していないらしいと、主人がため息をついたのは、言うまでもない。




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